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第15話:口に含んだ水

 夜明け前のオアシスは、まだ冷えていた。

 薄青い光が砂の上を淡くなぞり、世界は息をひそめたように静まり返っている。


 ルミナは胸に〈アクア・ステラ〉を抱いたまま、そっと目を開けた。

 隣で眠るナギの横顔が、淡い光に浮かび上がる。

 少年の頬には、昨夜の血の跡が、乾いた線のように残っていた。


「……ナギ?」


 呼びかけても、少年は微かに息をするだけだった。

 ルミナの胸が、きゅっと締めつけられる。


 昨夜、神の力を借りた代償が、

 いまも彼を深い眠りの底に閉じ込めている。


 彼女はそっと手を伸ばし、額に触れた。


 ――冷たい。


 砂漠の夜が、少年の体温を静かに奪っていた。


「パフ……どうしよう……

 ナギが……起きないの……」


 〈アクア・ステラ〉が、かすかに光を揺らす。

 パフの声は穏やかで、どこか遠い記憶のように響いた。


「当然だよ。

 人の力で機械神を動かすなんて、無茶もいいところだ。

 生きているだけでも、不思議なくらいさ」


「そ、そんな……」


 ルミナの瞳に、涙がにじむ。


「無理に呼び戻すな。

 ただ、そばにいてやれ」


「でも……このままじゃ……」


「きみの声と、きみの温もりが、少年の道標になる。

 それだけで、十分なんだ」


 ルミナはこぼれ落ちる涙をこらえきれず、ナギを抱き寄せた。


「……戻ってきて……ナギ……

 お願い……」


 彼女は少年を胸元へ引き寄せ、

 冷え切った額を、そっと自分の胸に押し当てる。


 砂漠の夜の冷気は、彼の体温を根こそぎ奪っていた。


 それでも――

 しばらく抱きしめ続けていると、

 氷のようだった身体に、わずかな変化が訪れる。


 自分の体温が、じわりと彼へ伝わっていく。


 冷え切っていた頬に、ほんの少しだけ温もりが戻る。

 こわばっていた指先が、ゆっくりとほどけていく。


 あまりにも小さな変化だったからこそ、

 ルミナの胸は、かえって締めつけられた。


「……大丈夫……

 あたしが、温めるから……

 だから……帰ってきて……」


 震える声を落としながら、

 彼女はさらに強く、少年を抱きしめた。


 やがて、薄青い光は白みを帯びていく。

 夜の冷たさがゆっくりと退き、

 昇りはじめた太陽の光が、ナギの頬をやわらかく照らした。


 その温もりに、ルミナは胸を撫で下ろす。

 凍えていた彼の身体が、少しだけ救われた気がした。


 だが――安堵は長く続かなかった。


 太陽はすぐに角度を変え、

 優しい光は、鋭い熱へと姿を変える。


 金属の甲板が、じり……と音を立てた。

 触れれば焼けるほどの熱が、ゆっくりと広がっていく。


 ルミナははっと息を呑み、

 抱きしめていたナギを守るように身を起こした。


 太陽が昇る。

 それは、この場所が――

 救いから、灼熱の危険へと変わる合図だった。

 機械神の肩の甲板は金属だ。

 夜は凍えるほど冷たく、

 昼には、焼けるほどの熱を帯びる。


 そして今――

 その金属が、じりじりと音を立てはじめていた。


「……ナギ……だめ……

 このままじゃ……」


 指先で触れた瞬間、

 思わず息を呑むほどの熱さだった。


「パフ……どうしよう……」


 胸元の〈アクア・ステラ〉がかすかに光り、

 低く、落ち着いた声が返ってくる。


「少年をそのまま寝かせておくのは危険だ。

 日陰を作れ。

 水で冷やすんだ」


「わかった。やってみる」


 短く答えると、ルミナはすぐに動き出した。


 潰れた砂虫の皮を集め、

 オアシスの水で丁寧に洗い流す。


 皮の裏にこびりついた体液と、

 細かな内臓片が、ふわりと浮いた。


「……っ」


 思わず顔をそむけそうになる。

 鼻を刺す生臭さが、喉の奥を反射的に震わせた。


 ――ナギのためだ。


 ルミナは息を止め、

 震える指でそれらを払い落としながら、

 一枚ずつ甲板へ運んだ。


 そのたびに、

 熱せられた金属に触れた指先が、じり、と焼ける。


「っ……」


 思わず手を引きたくなる痛み。

 それでも、皮を落とすわけにはいかなかった。


 赤く腫れはじめた指をかばいながら、

 彼女はそれらを重ね、

 少年の身体の下へ敷き込んでいく。

 焼けた鉄板の熱が、直接伝わらないように。


 さらに、硬い殻の部分を立て、

 簡素な日除けを作る。


 殻を押し込むたび、

 指先にまた熱が走る。

 皮膚は薄くなり、触れるだけでひりついた。


 不格好でもかまわない。

 少しでも影ができれば、それでいい。


 灼けつく日差しから、

 少年を守るために――

 ルミナは、痛む指を握りしめながら、ただ手を動かし続けた。


 日差しは、刻一刻と強くなっていく。


 ルミナは甲板の縁に立ち、

 下に広がるオアシスを見下ろした。


 水は、ある。

 確かに、そこにある。


 だが――

 どうやって、ここまで運ぶ?


 機械神の肩へ戻るには、

 両手を使って、金属の継ぎ目をよじ登らなければならない。

 手を離せば、落ちる。


 水を持ったまま登ることなど、できない。


「……どうしよう……」


 無意識に、握った手のひらを見つめる。


 容器も、ない。

 器も、袋も、壺もない。


「そうだ」


 思いつくまま、

 ルミナはためらいもなくパフに尋ねた。


「パフ、〈アクア・ステラ〉の水を……

 ナギに飲ませてあげてもいい?」


 昨日、助けてもらった。

 だから今日も――

 当然のように、そう思っての言葉だった。


「ルミナ、悪いけどそれはできない。

 昨日きみに飲ませたとき、藻やプランクトンがかなり減った。

 閉鎖空間の生態系を戻すのは、そう簡単じゃないんだ」


「……そう……わかったわ」


 パフは、わずかに声を低くする。


「それに、きみはもう気づいているんだろう?

 私は“魚”ではないということを」


「ええ、知ってるわ」


 このまま、ナギを熱にさらしておくわけにはいかなかった。


 ルミナは思わず振り返り、

 日陰で横たわるナギを見る。


 動かない。

 呼吸はある。

 けれど、それは浅く、苦しそうだった。


「……待って……

 すぐ水を持って戻るから……」


 そう呟いた瞬間、

 その言葉が――空虚に響いた。


(……持って、戻れない)


 考えは、もう尽きていた。


 ルミナはぎゅっと目を閉じ、

 一度だけ、深く息を吸う。


 甲板を駆け下り、

 オアシスの縁に膝をついた。


 両手ですくった水を、口に含む。

 冷たい水が、乾いた喉を潤す。

 だが、飲み込まない。


 こぼさぬよう、唇を強く閉じる。


 金属の継ぎ目に指をかけ、

 身体を引き上げる。


 一段。

 また一段。


 口を開かず、

 水を守るように。


 甲板に戻り、

 ナギの傍らに膝をつく。


(……運んできたよ……)


 彼女はそっと顔を近づけ、

 含んでいた水を、静かに流し込んだ。


 喉を潤すほどではない。

 ただ、乾きを防ぐための、ほんの一口。


 ナギの喉が、かすかに動く。

 小さな――確かな、命の音。


 ルミナはしばらく彼を見つめ、

 息を吐くと、もう一度、下へ向かった。


 また水を含み、

 また登る。


 何度も。

 何度も。


 唇は乾き、

 舌は痺れ、

 足は熱で震えはじめていた。


 それでも、彼女は止まらない。


「……私は大丈夫……

 だから……目を覚まして……」


 そう囁きながら、

 ルミナは、また水を含んだ。

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