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第9話:朝日の民と夕日の民

翌朝――


夜が明ける前の薄明かりの中、ルミナは目を覚ました。

昨夜、二人で抱えていた〈アクア・ステラ〉が、

微かな光を放ちながら、そこにある。


(……温かかった)


ふと、手のひらに残る球体の感触を思い出す。

昨日まで自分を蔑んでいた「汚れ」への嫌悪は、もうそこにはなかった。


崖の上には、微かな光が差していた。


登れる。


だが、その崖を越えようとする二人は、もう昨日の二人ではなかった。


壁を登るにつれ、海溝の向こう側──東の崖が見えてきた。

朝日とは逆方向からの“残光”に照らされている。

まるで夜明けを拒むように、淡い橙色の光だけが崖肌を染めていた。


「向こうの壁……人がいる」


「ああ。『夕日の民』だ。

 こちら側とは、決して交わらない。……鏡の中の、別世界だ」


「鏡?」


「ああ。朝日が昇るとき、こちら側は光に満ちる。

 向こう側は影に沈む。

 夕日が沈むとき、向こう側が光り、こちらは闇に落ちる」


ナギは海溝の向こうを見つめた。


「まるで、一枚の鏡が世界を分けているみたいだ。

 同じ時を生きているのに、決して同じ光は見られない」


「それに、あっちは、死者の魂が行き着く場所。

 決して声をかけてはならないし。災いが来るって言われている」


「……何それ。同じ人間でしょう? おかしいわ」


崖の向こうで、淡い橙色の残光に照らされた人影が、ゆっくりとこちらを見返しているように見えた。

――まるで、鏡の中の自分が、じっとこちらを睨んでいるように。


ナギは淡々と語りながら、一歩一歩、垂直の壁を征服していく。

義手が岩を握り潰す、鈍い音。

ナギの荒い呼吸音。


それらすべてが、ルミナの背中を通して伝わり、

凍りついていた彼女の心を、少しずつ溶かしていった。


崖を登り切った二人は、岩陰に身を寄せた。

昼間の灼熱は、肌を焼き、息を奪う。

この世界では、太陽が天頂にあるあいだ、誰も動けない。


ルミナは、朝に見た“鏡のような人影”を思い返しながら、

長い沈黙の時間を過ごした。


(……見えているのに、触れられない。

 まるで鏡みたい)


ナギは何も言わず、ただ東の崖を見据えていた。


太陽が傾き、熱がゆっくりと引いていく。

影が伸び、風が戻り、岩肌の色が変わり始める。


――やがて、夕刻。


空気は冷え、西の崖には影が落ち、静かに闇が満ちていく。

一方、東の崖だけが夕日に照らされ、岩肌を赤く染め始めていた。


その赤い光を受け、

人々が穴倉から姿を現し、槍のようなものを手にして崖の下へ降りる準備を始める。


日中の灼熱を避け、涼しい時間帯にのみ活動する――

彼らは、狩猟の民だった。


「……動き出した」


「ほら、見て。彼らも私たちと同じ人間よ。

 どうして交流しないの?

 あっちに行けばいいじゃない」


「俺たちは飛べない。それに向こう側へは、どうやっても辿り着けない。

 崖の縁を伝って旅立った者もいたが――

 誰一人、辿り着けなかった。

 帰ってきた者もいない」



「飛べない、の?

 それで……この崖を“越えられない”だけで、世界が分断されるのね」

 

ナギは答えなかった。

それが、この世界の答えだった。


崖の途中、岩肌に不自然な直線が走っていた。

風化した石の中に、ひとつだけ“人の手”を感じさせる輪郭。


「あれ?」


ルミナが指差す。

岩壁に、木でも金属でもない、奇妙な素材の扉が埋め込まれていた。


「朝日の民の住居だ。

 頼めば入れてくれるかもしれない。……地上まで抜けられる」


ナギが言い終える前に、扉の向こうから微かな気配がした。


ギ……ッ。


内側から、ゆっくりと扉が開く。


薄暗い穴倉の奥に、影が立っていた。

痩せた体。淡い砂色の肌。

瞳だけが、夜明け前の空のように淡く光っている。


「……何してる。こんなところで」


低く、乾いた声。

敵意はない。ただ、強い警戒だけがあった。


ナギは胸に手を当て、深く頭を下げる。


「通行を願う。地上まで抜けさせてほしい」


朝日の民はしばらく二人を見つめた。

ルミナの白い肌、アクア・ステラ、ナギの義手。

どれも彼らにとって異質なものだ。


やがて、影は静かに頷いた。


「……入れ。風が強くなる」


扉が大きく開く。

中は、外よりもずっと暖かかった。


通路は狭く、乾燥しているが涼しい。

地中の温度は、常に一定に保たれているようだった。


奥で、もう一つの影が待っていた。

年老いた女。

背は曲がっているが、瞳は鋭い。


「砂の民か」


ナギが頷く。


「はい。どうか、道を」


老婆はルミナを見つめたまま、ふっと目を細めた。


「……唇が乾いてるね。砂の民の子もだ。

 相当、水を失ってる」


老婆は壁際に目を向けた。

そこには、地中から伸びた根が数本垂れ下がり、

先端が丁寧に切り落とされている。

切り口から、薄く濁った水がぽたり、ぽたりと瓶に落ちていた。


老婆は手酌でその水を掬い、

こぼさぬよう慎重に小さな容器へ移す。


「飲みな。地中の根が吸った水だ。

 朝日の民は、これで喉を潤す」


ナギは慣れた手つきで受け取り、ためらいなく口に含んだ。


「……少し苦いけど、飲める?」


ルミナも差し出された容器を受け取った。

鼻を近づけた瞬間、土と草の強い匂いが刺す。


(うっ……)


喉が拒絶しそうになる。

だが、今の彼女は弱音を吐かなかった。

ゆっくりと口に含む。


「……に、が……」


思わず眉が寄る。

だが、冷たさが喉を通り、

乾ききっていた体に染み込んでいくのが分かった。


老婆はその様子を見て、小さく頷いた。


「飲めるなら、大丈夫だよ」


ルミナは容器を握ったまま、静かに息をつく。

苦味の奥に、ほんのわずかな甘さが残っていた。


「腹も減ってるじゃろ、砂藻サンド・アオのパンを食べるといい。

 口にあうかどうかわからんがな」


老婆は、薄く青緑に染まった平たいパンを差し出した。

影でゆっくり乾かした、朝日の民の主食。


「ありがとう。おばあさん。」


ルミナは一口かじった。


「あっ……」


自分でも驚くほど変な声が出た。


空腹だったこともあるが、それだけではない。

それは、彼女が宇宙で食べていた

培養藻ベースの食糧によく似ていた。


(……似てる。こんな世界なのに)


「美味しいです。これ、私たちの食事に味がそっくり」


乾いた世界の食べ物なのに、

遠い宇宙船の食卓を思い出させる。


老婆はその様子を見て、

ほんのわずかに口元を緩めた。


「砂藻は、西の崖の僅かな日陰でしか育たない。

 岩塩、それに根の粉と汁を一緒に練るんじゃ。

 よかったら、いくつか持っておいき」

 

「感謝します。朝日の民よ」


ナギは丁寧に頭を下げた。

その仕草には、どこか古い儀礼の名残があった。


そして、老婆は、もう一度ルミナを見つめた。

その視線は、肌ではなく、もっと奥を見ている。


「……その子は、違う匂いがするね。

 どこから来たんだい?」


ルミナは息を呑んだ。


「わ、私は……」


言いかけた言葉を、老婆はゆっくりと首を振って制した。


「言わなくていいよ。

 ……戻ってきたんだね」


それだけ言うと、老婆は静かに背を向けた。


「ねえおばあさん

 夕日の民との交流は今まで一度もなかったの?」


老婆は苦い顔で答えた。

「……昔、ワイヤーを渡そうとした者もいた。

 だが、届いたそばから切られてしまう」


「切られる?」


「そうじゃ。我らにとって彼らが“死者”であるように、彼らにとっても我らは“禁忌”。

 お互いが、お互いを恐れている。それがこの海溝の掟なんじゃ」


ルミナは納得がいかないという顔をした。

あちら側も、こちら側を「災い」と呼び、恐れている。

見えるのに、届かない。


「やっぱり……鏡なんだ」


ルミナは小さく呟いた。


まるで鏡のように同じ姿をしながら、決して交わることのない二つの文化が、そこにはあった。


アクアステラの中で、パフが静かにつぶやく。


「この世界そのものだ」


パフは金色の瞳を細めた。


「天と地。海と砂。朝と夕。生者と死者。

 そして――天空人と地上人。

 みな、同じ世界に生きているのに、決して交わることができない」


その言葉が、穴倉の中に静かに沈んだ。


ルミナは、自分の胸に手を当てた。

鼓動は確かに打っている。


でも、それは天空人のものなのか、地上人のものなのか――

もう、分からなくなっていた。


「地上は近い。気を付けな」


通路の先に、淡い光が見える。

風の音。

砂の匂い。


ナギが先に出て、ルミナの手を引いた。


「……眩しい」


地上の光は、海溝の底とは違う。

広く、乾いていて、どこか懐かしい。


ルミナは思わず目を細めた。


「はあ……やっと出られた」


パフが球体の中で揺れた。


「さあ、アーク神に会いに行こう」


ナギは振り返り、朝日の民の扉へ深く頭を下げる。


扉は音もなく閉じ、

まるで最初から存在しなかったかのように、岩壁へ溶け込んだ。


風が吹き抜ける。


二人と一匹は、

砂の村へと歩き出した。

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