第八十七章 奈々の声
地下室の闇は深く、空気はひんやりと湿っていた。
由紀は膝をつき、握りしめたリボンから微かな光を受け取る。
その光が、鉄格子の奥へと続く通路を照らす道標のように感じられた。
その時だった。
――「ユキ……助けて……」
かすかな声が、遠くから耳に届く。
振り返ると、影は消え、代わりに鉄格子の奥が揺らめいて見える。
声ははっきりと、しかし微弱に響き続けていた。
由紀は立ち上がる。
膝の震えを抑えながら、少しずつ鉄格子の奥へ進む。
呼吸は浅く、心臓は激しく打つ。
声の方向に歩みを進めるたびに、空気はより重く、血の匂いが濃くなった。
「奈々……いるのね……?」
由紀は囁くように声をかけた。
応えはなかった。
しかし、鉄格子の奥から微かなすすり泣きが聞こえた。
声は確かに奈々のものだ。
そしてリボンの光が、その声に反応するようにわずかに輝いた。
***
同時に、被害者の意識も奈々の声に引き寄せられる。
夢の中で、格子の奥に立つ奈々の姿が見える。
青いワンピースに血の跡はなく、しかし目は怯えていた。
「ユキ……お願い……助けて……」
被害者は心臓を抑え、手のひらを握りしめる。
――奈々はここにいる。
生きている。
その声は、地下室にいる由紀と、病室の被害者を繋ぐ橋のようだった。
***
由紀は鉄格子に手をかけた。
冷たく錆びついた金属が手に刺さる。
奥に広がる闇は深く、足を踏み入れるのを躊躇わせる。
だが奈々の声が、彼女を止めない。
「必ず……助ける……!」
由紀は決意を込めて、奥へ一歩踏み出した。
その瞬間、通路の壁に描かれた無数の名前が、淡く光り始めた。
リボンの光と重なり、子どもたちの声が混ざり合う。
「ここにいる……見つけて……」
それは奈々だけでなく、過去に囚われていたすべての子どもたちの声だった。
***
鉄格子の奥で、奈々は小さく体を震わせていた。
拘束具はない。だが周囲の壁には鉄の鎖や錆びた道具が散乱し、自由に動くことを阻む暗示が支配していた。
「ユキ……来て……」
奈々の声が、由紀の胸を突き刺す。
由紀は一歩、また一歩と進む。
奥に進むたびに、闇は濃くなる。
だが、リボンの光が道を照らし、奈々の声が歩みを支える。
「ここにいる……絶対に……」
奈々の声が震えながらも、確かな強さを帯びていた。
由紀の視界がゆらぎ、鉄格子の向こうにぼんやりと人影が浮かび上がる。
「奈々……!」
思わず声をかけると、影はゆっくりと振り返った。
それは――紛れもなく、奈々だった。
目は怯えているが、心の奥に確かな希望の光が宿っていた。
「ユキ……ありがとう……見つけてくれて……」
由紀は膝をつき、リボンを強く握りしめた。
奈々の声が、地下室全体に広がり、闇の奥に潜む影を微かに揺らす。
しかし、奥深くに潜む仮面の人物の気配もまた、じっと二人を見つめていた。
その冷たい視線は、まだ終わりを告げていないことを示していた。




