第八十五章 仮面の正体
鉄格子の前に立ち尽くす由紀の耳に、かすかな囁きが流れ込んできた。
「――見つけるな……知るな……」
影の声だ。
先ほどまで威圧感を纏っていたその存在は、今や恐怖に怯える人間のように見えた。
由紀は振り返った。
影の輪郭は揺らぎ、闇の中に誰かの姿を映し出している。
それは――仮面をかぶった人物。
白衣を纏い、無言で子どもたちを連れ出していたあの姿だった。
「あなたが……奈々たちを……」
由紀の声が震える。
影は頭を抱えたように揺らぎ、呻き声を上げる。
「違う……私は……あれではない……あれに囚われただけだ……」
由紀は言葉を失った。
影が怯えている? まるで、仮面の人物を恐れているかのようだった。
***
一方その頃、病室のベッドで被害者は再び幻視を見ていた。
意識が遠のき、彼は再び地下室に立っている。
鉄格子の外で、仮面の人物が立っていた。
その声が頭の奥に直接響く。
「人は捨てられる……ただの素材だ……」
次の瞬間、被害者の胸を激痛が走る。
脳裏に焼き付けられるように、その仮面の人物が「注射器」を手にしている光景が刻まれた。
子どもたちに打たれる薬。
泣き叫び、崩れ落ちていく姿。
――その場に、奈々もいた。
必死に抵抗し、リボンを握りしめながら、最後まで「私は消えない」と叫んでいた。
被害者は息を呑み、震える声を漏らす。
「仮面の人物……あれは……人間……?」
***
由紀は鉄格子の前で膝をつき、壁に刻まれた名前をなぞっていた。
「ここにいた子たちは、みんな……」
胸が締めつけられる。
影の声がかすれる。
「私は……ただの残響……あれの……残した……」
「じゃあ……仮面の人物は誰なの?」
由紀は問いかける。
返答はなかった。
だが、視界の端で仮面の人物の姿がちらついた。
その目元だけが一瞬だけ露わになり、鋭い眼差しが由紀の心臓を突き刺す。
「――!」
由紀は思わず後ずさった。
あの目には、恐怖も後悔もなく、冷酷な確信だけが宿っていた。
***
病室で目を覚ました被害者は、息を荒げながら呟いた。
「仮面の下……あれは……」
思い出しかけた顔の輪郭が、記憶の奥から浮かび上がろうとしていた。
だが次の瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走り、視界が真っ白に弾けた。
まるで誰かが「思い出すな」と強制しているかのように。
ベッドの上で叫び声を上げ、彼は頭を抱えた。
***
由紀はリボンを握りしめながら、決意を固めていた。
「奈々……必ず見つける。仮面の正体も、全部暴く」
影は呻くように呟いた。
「それを知れば……お前も……戻れなくなる……」
だが由紀は揺るがなかった。
奈々の声が確かに背中を押していたからだ。
地下室の闇がざわめき、格子の奥の気配が蠢いた。
仮面の人物が、再び現れる。
だが今度は――その輪郭が、はっきりと人間の姿を取り戻しつつあった。
「……誰……?」
由紀は息を呑んだ。
仮面の奥の瞳が光を放ち、静かに告げる。
「私は……選んだ者だ」
その瞬間、地下室全体が大きく震えた。




