第八十四章 扉の向こう
鉄の扉が開いた瞬間、由紀の頬を冷気が撫でた。
吐き気を催すような匂い――鉄錆、消毒液、そして血の腐敗臭が混じり合った重苦しい空気が、洞窟の奥から流れ込んでくる。
懐中電灯を点けると、薄暗い通路が現れた。
壁には無数の爪痕のような傷が走り、床には小さな靴の跡がいくつも重なり合っていた。
足跡は奥へ、奥へと続いている。
由紀の喉が鳴る。
「……ここに、閉じ込められていたの?」
答える声はない。だが、どこか遠くで子どものすすり泣きが響いた。
影は扉の外で立ち尽くしていた。
その輪郭はもう薄く、霧のように崩れかけている。
「戻れ……」
その言葉はかすれていた。
由紀は影を振り返らず、一歩、また一歩と奥へ進む。
ポケットの中の奈々のリボンが再び熱を帯び、歩みを促すように明滅していた。
***
その頃、被害者は病室のベッドの上で身を起こしていた。
心臓は早鐘を打ち、汗でシーツが濡れている。
夢の中で見た光景は、現実の映像のように鮮明に残っていた。
――奈々は確かに「扉を開けて」と言った。
そして泣き声の向こうには、他にも子どもたちがいた。
「……奈々、君は一人じゃなかったんだな」
小さく呟いた瞬間、頭の奥に再び声が響いた。
《見て――》
視界が一瞬にして暗転し、被害者は意識が引きずられるように別の場面を見せられた。
そこは狭い地下室。
子どもたちが怯えた顔で肩を寄せ合い、鉄格子の中で震えている。
奈々もその中にいた。
「お母さん……お父さん……」と嗚咽をこぼす声が、夢ではなく現実の記憶として胸を締めつける。
そして格子の外に立つ人影。
白衣をまとい、顔を仮面で隠したその人物が、無言で子どもを一人ずつ連れ出していく。
引きずられていく子どもたちの泣き声は、やがて途絶えた。
――そのたびに、格子の中は静まり返り、次に自分の番が来るのではないかと全員が怯え続けた。
「これが……真実……?」
被害者は喉を震わせた。
記憶はまだ完全ではない。
だが確かに、あの仮面の人物は“影”と重なって見えた。
***
一方、由紀は奥へと進んでいた。
通路の先には、鉄格子の扉があった。
その内側には――
壁一面に、名前と日付が刻まれていた。
鉛筆で書かれたもの、爪で掻きつけられたもの、血で滲んだもの。
幼い筆跡が重なり、必死に存在を訴える痕跡がそこにあった。
「……ここで……」
由紀は声を失った。
その中に「奈々」という文字を見つけたからだ。
震える手で触れた瞬間、視界が白く染まった。
***
――そこは、奈々の記憶の中だった。
暗い格子の中、怯えながらも声を上げていた。
「助けて……ここから出して……」
だが、扉の向こうには冷たい視線だけがあった。
仮面の人物。
白衣の袖口に、赤黒い染みがこびりついていた。
「お前たちは選ばれたんだ」
低い声が響く。
奈々は泣き叫びながらも、必死にリボンを握りしめていた。
「絶対に……見つけてもらうから!」
その声と共に、由紀の胸の中でリボンが熱を放った。
***
現実へと戻った由紀は、格子の前に立ち尽くしていた。
壁に刻まれた奈々の名前が、淡く光って見える。
それは彼女の存在が確かにここにあった証だった。
背後では影が呻き声を上げている。
「知るな……見つけるな……」
だがその声はもはや弱々しく、怨嗟というよりも恐怖に近かった。
由紀はゆっくりと顔を上げ、格子の奥へ呼びかけた。
「奈々……聞こえる?」
微かな風が吹き、すすり泣きが重なる。
そして確かに、少女の声が返ってきた。
「……見つけてくれて、ありがとう」
その瞬間、地下室の闇が震えた。




