第八十二章 犯人の影
地下室に満ちる静寂を破ったのは、微かな足音だった。
由紀は懐中電灯を握りしめ、光を向ける。
しかし照らし出されたのは、何もない錆びた通路だけ。
だが確かに、誰かがいた。
背後に漂う圧迫感。
肺を押し潰されるような重苦しい気配が、皮膚の下まで染み込んでくる。
「……誰?」
声はかすれ、喉の奥で震えた。
応えはない。
ただ、壁際に並んだ血痕が一斉にざわめき、赤黒い染みがわずかに蠢いたように見えた。
まるで、この場そのものが生きているかのように。
由紀の耳に、かすかな笑い声が届いた。
それは遠くからではなく、すぐ耳元で囁かれるような声だった。
「まだ……見つけてはならない……」
心臓が跳ね、全身の毛穴が逆立つ。
振り返っても、そこには誰もいない。
懐中電灯の光が揺れ、奥の壁を照らす。
その瞬間、光の先に黒い影が一瞬浮かび上がった。
人の形をしているようで、しかし輪郭が定まらず、煙のようにゆらめいて消えていく。
「影……?」
由紀は一歩後ずさった。
しかし影は彼女の後を追うように、ゆっくりと壁から離れ、床の上に伸びてきた。
それは、ただの幻覚ではなかった。
影の中心から、確かに“生身の人間”の息遣いが響いていた。
***
一方その頃。
被害者は夢の中で再び血痕の部屋に立っていた。
だが今回は、奈々の姿は見えない。
代わりに、部屋の奥に濃い闇が集まり、やがて人影を形作っていった。
「誰……なの?」
声を発した瞬間、その影がゆっくりと顔を上げる。
だがその顔は黒い布のように覆われ、目も口も存在しなかった。
ただそこにいるだけで、恐怖が喉を塞ぐ。
影は声を持たない代わりに、被害者の心に直接語りかけてきた。
――「知ってはならない」
――「忘れろ」
――「お前もあの子たちと同じ運命を辿る」
「違う……私はもう、逃げない!」
被害者は叫び返した。
胸の奥に、奈々が残した声がまだ残っている。
その声が、影の威圧に押し潰されそうな心を必死に支えていた。
影の姿は揺らぎ、輪郭を失いかけながらも、なおそこに立ち続けた。
「……お前が思い出すたびに、ここが崩れる」
低い声が頭の奥で響く。
次の瞬間、部屋の壁にひび割れが走り、赤黒い血痕が一斉に流れ落ちていった。
床に広がる赤い波が被害者の足を呑み込もうとする。
「いやっ!」
叫ぶと同時に、意識が現実に引き戻される。
***
地下室。
由紀は壁から這い出してきた影に後退を強いられていた。
懐中電灯の光を向けると、影は煙のように形を失う。
だが光を逸らすと、再び濃くなり、まるで獲物を狙う獣のように迫ってくる。
「あなたが……犯人……?」
喉から絞り出した言葉は、すぐさま闇に吸い込まれた。
返答はなかった。
ただ、影が壁の奥を示すように動いた。
由紀が恐る恐る視線を向けると、木板の裏に隠された鉄の扉があった。
古びた南京錠が掛けられている。
影は音もなく近づき、由紀の耳元に囁いた。
「開けてはならない――」
次の瞬間、懐中電灯がふっと消えた。
漆黒の闇が由紀を包み込み、影だけがぼんやりと浮かび上がる。
その姿は、もう“ただの影”ではなかった。
人の骨格を持ち、肩を揺らしながら息をしていた。
血の匂いが空気に混じり、現実の存在感がますます濃くなる。
由紀は無意識にリボンを握りしめた。
ポケットの中のそれがかすかに震え、再び光を放った。
闇を切り裂くように浮かび上がった鉄の扉。
影が扉を遮るように立ちはだかる。
「ここを開ければ……戻れなくなる」
由紀は答えず、ただ一歩踏み出した。
影の視線が彼女に突き刺さる。
しかし、その視線の奥には、どこか人間的な“恐怖”が混じっているように見えた。
――犯人は、この扉の向こうにいる。
そして、この影こそが、その存在の化身なのだ。




