第八十一章 血痕の記憶
由紀の足音が、廃工場の奥に響き渡った。
拾い上げた白いリボンを握りしめたまま、彼女はさらに暗闇の奥へ進む。
懐中電灯の光が照らす先に、鉄製の階段が現れた。
手すりは錆びつき、触れるたびに粉のような錆が指先にまとわりつく。
階段を降りた先は、地下室のように湿った空間だった。
床には黒ずんだ染みが点々と広がり、壁には釘で打ちつけられた木板がいくつも並んでいる。
由紀は息を呑んだ。
光を近づけると、それは赤黒く変色した血痕だった。
「……ここで……」
奈々だけではない、他の犠牲者の痕跡さえも、そこに封じ込められているように感じられた。
震える指先で血痕に触れると、頭の奥に鋭い痛みが走った。
視界が一瞬、真っ赤に染まる。
――少女の叫び。
――男の荒い息。
――「静かにしろ」という声。
由紀は壁に手をつき、その場に膝をついた。
「これは……記憶……? 私のものじゃない……」
目の前の血痕は、単なる染みではなかった。
そこには、犠牲者たちの“最後の瞬間”が刻み込まれていた。
***
一方その頃。
被害者は夢の中で、再びあの部屋に立たされていた。
椅子もリボンも消え、ただ床に広がる無数の赤い痕跡だけが残されている。
「これは……」
視線を落とすと、赤黒い染みが次第に形を変え、映像のように浮かび上がってきた。
――暗い部屋の中、少女が必死に逃げようとしている。
――扉の外に助けを求める声。
――しかしその扉は決して開かなかった。
「奈々……!」
叫ぶ声が夢の空間にこだまする。
少女の影が振り返り、口を開いた。
「私を見て……ちゃんと、最後まで……」
床の血痕は、まるで彼女の願いを伝えるかのように、さらに鮮明な光景を映し出す。
そこには、複数の影がいた。
奈々の他に、同じ年頃の少女たち。
彼女たちは椅子に縛られ、声を殺され、ただ怯えながら夜を過ごしていた。
「まさか……奈々一人じゃなかった……?」
被害者の頭に、忘れ去られていた記憶が蘇り始めた。
彼女は確かに、当時その場にいた。
暗闇の中、仲間と手を握り合いながら、誰も助けに来ないことを悟っていた――。
***
現実の由紀は、壁一面の血痕を前に立ち尽くしていた。
心臓が激しく脈打つ。
ここに刻まれた声は、彼女に語りかけてくる。
――「助けて」
――「怖い」
――「なぜ私たちだけが」
数え切れないほどの声が重なり、地下室はまるで生き物のように震えていた。
由紀は頭を押さえ、耐え切れずに叫んだ。
「誰か……答えて!」
すると、ポケットの中のリボンが震え、まるで導くように光を放った。
その光は、奥の壁の一部を照らす。
そこには、他とは違う、新しい血痕があった。
まだ乾ききっておらず、鮮やかな赤を保っている。
「……最近、ここに……誰かが……」
由紀の背筋に冷たい汗が伝う。
奈々の事件は過去のものではなかった。
同じ惨劇が、今も続いている――そう悟った瞬間だった。
***
夢の中の被害者もまた、最後の映像を目撃していた。
奈々が椅子に縛られ、涙を流しながら彼女に訴える。
「忘れないで……私たちは……まだここにいる」
その言葉と共に、床の血痕が鮮烈に輝き、夢の世界全体が揺らぎ始めた。
被害者は胸を押さえ、膝をついた。
心臓が焼けるように熱い。
だが、その痛みは恐怖ではなかった。
――これは“合図”だ。
奈々は、自分に真実を託そうとしている。
震える唇で彼女は囁いた。
「奈々……必ず、光の下に連れ戻すから」
その瞬間、夢と現実を隔てる境界が完全に溶け合い、由紀と被害者、そして“奈々”の声がひとつに重なった。
「ここにいる――」




