第八十章 扉の向こう
扉がわずかに開いた瞬間、被害者の視界は眩しい光に包まれた。
夢の中のはずなのに、光はあまりにも生々しく、まるで現実の太陽が差し込んでいるかのようだった。
「まぶしい……」
思わず目を細めた。
やがて、薄暗い空間の輪郭が浮かび上がる。
そこは狭い部屋だった。壁はコンクリートむき出しで、床には乾いた血のような茶色い染みが点々と広がっている。
部屋の中央には、錆びついた椅子。
そこに、小柄な少女の影が膝を抱えて座っていた。
「……奈々?」
呼びかける声が震える。
少女は顔を上げた。
だが、その顔は曖昧に揺らめき、はっきりとは見えなかった。
夢の記憶だからなのか、それとも意識が拒んでいるのか。
「助けて……」
奈々と思しき影は、か細い声で囁いた。
***
同じ時刻。
現実の世界で、刑事・由紀は廃工場の扉を押し開けていた。
強烈な錆の匂いと、湿った空気が一気に流れ出す。
懐中電灯の光が部屋を切り裂くと、そこには夢と同じ光景――椅子と、壁に残る無数の爪痕が現れた。
だが、椅子には誰も座っていなかった。
ただ、床に擦り切れた縄と、少女のものと思われる白いリボンが落ちていた。
由紀は震える指でそれを拾い上げた。
「……奈々……確かにここに……」
胸の奥に強烈な共鳴が走る。
その瞬間、由紀の脳裏に他人の記憶が流れ込むような感覚があった。
――暗い部屋。
――泣き叫ぶ少女。
――誰かが近づき、冷たい手で口を塞ぐ。
「やめて!」
思わず叫び、懐中電灯を落とした。
床に転がった光が椅子を照らす。
そこに一瞬だけ、人影が浮かび上がったように見えた。
***
夢の中の被害者は、少女に近づこうとしていた。
だが足が動かない。
まるで床に根が張り付いたように、前に進めなかった。
そのとき、少女の影が顔を上げ、こちらをじっと見つめた。
「どうして……助けてくれなかったの?」
被害者の胸を鋭い刃物のような言葉が突き刺した。
「違う……私は……!」
叫ぼうとしたが、声が出ない。
その代わりに、少女の背後の闇から長い影が伸び、椅子ごと少女を包み込んでいった。
「やめろ!」
被害者は必死に足を動かす。
だが、伸ばした手は届かず、少女の姿は闇に呑み込まれていった。
最後に残ったのは、白いリボンだけだった。
***
現実。
由紀は拾い上げたリボンを胸に抱え、震える声で呟いた。
「これは……彼女が残した“鍵”かもしれない……」
だが、背後で小さな物音がした。
振り返ると、誰もいない。
しかし確かに気配がある。
闇の奥から、何者かがこちらを見ている。
由紀の耳に声が響いた。
「どうして……助けてくれなかったの?」
それは夢の中で被害者が聞いたのと同じ、奈々の声だった。
由紀の心臓が大きく跳ね上がる。
夢と現実が完全に重なったのだ。
「奈々……あなたはまだ、この場所に縛られているの?」
返事はない。
ただ、風に揺れたリボンがひとりでに宙を舞い、扉の奥――さらに深い闇へと導くように落ちていった。
由紀は拳を握りしめ、震える足を一歩前に進めた。
「必ず……あなたを見つけ出す」
その言葉と同時に、夢の中の被害者もまた同じように闇へと足を踏み入れていた。
こうして二人は、異なる世界でありながら、同じ運命の道を歩み始めたのだった。




