第七十八章 影の証言
雨が降り出す気配があった。
鈍い雲に覆われた名古屋の街を、刑事・由紀は独り歩いていた。
手には一冊のファイル。過去の失踪事件、そして「奈々」という少女の名前が繰り返し浮かび上がる記録だ。
被害者が断片的に語った「夢」の内容が、由紀の胸に妙なひっかかりを残していた。
夢で見たはずの「廊下」「鍵のかかった扉」――。
常識的に考えれば被害者の妄想や錯覚にすぎない。
しかし由紀は直感していた。そこには何か現実の痕跡が混じっている。
「奈々のことを忘れるな、ってことか……」
呟きながら、彼女は古い資料の束をめくった。
奈々の失踪直前、最後に目撃された場所――それは市の外れにある廃工場群だった。
当時は決定的な証拠もなく、調査は立ち消えになった。
だが、被害者の夢の中に現れた「廊下の描写」と、工場跡地の内部構造が奇妙に符合していたのだ。
由紀は現場へ向かう決意を固めた。
***
夕暮れ、廃工場はひっそりと佇んでいた。
フェンスの錆びついた扉を押し開けると、乾いた鉄の軋む音が響いた。
中に足を踏み入れると、冷たい風が吹き抜ける。
薄暗い空間には、無数の廊下や扉が並んでいる。
「……やっぱり」
由紀は足元のタイルを見下ろした。
どこかで聞いた覚えのある感触。
そうだ、被害者が夢の中で言っていた“冷たい床”の描写と重なる。
ただの偶然にしては出来すぎている。
懐中電灯を灯しながら進むと、奥に錆びついたドアが現れた。
取っ手を握ると、重く固い手応えが返ってくる。
――鍵がかかっている。
心臓が強く跳ねた。
夢で被害者が必死に揺さぶっていた扉と同じ構造だ。
由紀は耳を澄ませた。
静寂の中に、かすかに水滴の落ちる音が響いている。
それは被害者が語った夢の情景を、まるで現実に再現しているかのようだった。
「……奈々は、ここで……」
言葉を飲み込む。
推測の域を出ない。だが、この場所には確かに“痕跡”がある。
懐中電灯の光が壁を照らしたとき、小さな傷跡が浮かび上がった。
無数の爪痕のような引っかき傷。
錆びた鉄板に深く刻まれたそれは、誰かが必死に逃れようとした痕に見えた。
由紀の喉が乾く。
背後に気配を感じて振り返ったが、誰もいない。
ただの風か、それとも――。
彼女は深呼吸し、携帯端末で現場の記録を撮影した。
「証拠になる……」
そう自分に言い聞かせるように。
だが、その瞬間。
背後から「コツ、コツ」と足音が響いた。
凍りつく。
被害者が夢で聞いたのと同じ音――。
「誰だ!」
由紀は即座に振り向いた。
だが、そこには何もなかった。
空っぽの廊下が延々と続くだけ。
冷たい汗が背筋を伝う。
被害者の記憶と、今の自分の体験が重なっていく。
まるで、奈々の声なき証言が夢を介して二人を繋いでいるかのように。
「奈々……あなたはここにいるのね」
由紀は震える声で呟いた。
次の瞬間、携帯端末のライトが一瞬だけ揺らめき、壁の奥に影のような人影が浮かび上がった。
見間違いか、それとも――。
由紀は思わず息を呑み、暗闇へ踏み出した。




