第七十七章 夢の裂け目
闇の中で目を開けると、そこはもう自分の部屋ではなかった。
湿った匂い。剥がれかけた壁紙。どこからか滴る水音。
知らないはずの場所なのに、妙に馴染み深い感覚が胸を刺した。
――ここを、知っている。
足元には古びたタイル。
視線を落とすと、そこに「私」が立っているはずなのに、見慣れぬ細い足首があった。
薄いストッキング、すり減ったローファー。
その姿は、被害者自身ではなく「奈々」そのものだった。
「どうして……?」
声を出すと、自分のものではない少女の声が響いた。
震える高音。
それは資料で見た奈々の学生証の写真と、記憶の奥に沈殿していた輪郭を重ねるに十分だった。
夢だ、と気づいた。
だが夢にしては、あまりに質感が生々しい。
壁に手をつけば、湿った冷たさが掌を濡らす。
かすかなカビ臭が肺を満たす。
――これが、奈々の最後の記憶?
思考を巡らせる間もなく、背後からかすかな足音が響いた。
コツ、コツ、と規則正しく近づいてくる。
胸が締め付けられる。
逃げなければと足を踏み出した瞬間、身体は勝手に動き出した。
夢の中の「奈々」の意思に引きずられるように。
狭い廊下を走る。
扉に手をかけるが、鍵がかかっている。
ガチャガチャと揺さぶる音が、余計に恐怖を煽る。
背後で足音が近づき、やがて呼吸の音すら聞こえそうな距離になった。
振り返ろうとする――だが、その瞬間、夢は黒い幕に覆われた。
「やめて……来ないで!」
奈々の叫びと自分の叫びが重なる。
その声に引き裂かれるように、視界が真っ白に弾けた。
気がつくと、被害者は自分のベッドの上で跳ね起きていた。
額から汗が流れ、胸は荒く上下している。
脈打つ心臓の音が耳を塞ぐ。
「……夢、なの?」
そう呟きながらも、夢で感じた冷たさがまだ掌に残っている気がした。
ただの悪夢にしては、あまりに具体的。
そして何より、あの「廊下」や「扉」を自分は一度も見たことがないはずだった。
なのに、走り抜けた感触は現実そのものだった。
被害者は震える手で枕元のノートを開いた。
夢の断片を必死に書き留める。
「廊下」「鍵のかかった扉」「足音」。
文字にすることで、自分が見たものが確かに存在した証拠になるように思えた。
――これはただの夢じゃない。
奈々の記憶が、私に流れ込んでいる。
そう直感した瞬間、背筋を冷たい電流が走った。
奈々が最後に見たものを、自分は今、追体験しているのだと。
そして、その記憶の奥に潜んでいる「誰か」は、まだ見えない顔をしたまま。
ベッドの上で膝を抱えながら、被害者は決意を固めた。
「……次に夢が来たら、逃げない。最後まで見てやる」
外では夜明け前の風が窓を叩いていた。
闇はまだ濃く、そして何よりも重くのしかかっていた。




