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『見えない鎖』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第七十五章 揺さぶられる記憶



 取調室の空気は、冷たく乾いていた。

 蛍光灯が真上から容赦なく照らし、机の上の書類を白々しく浮かび上がらせている。

 私は椅子に座り、両手を膝に置いたまま、視線を下げていた。


 「呼び出してすまない」

 低い声とともに、北条刑事が資料のファイルを持って部屋に入ってきた。

 彼の目は疲れているようでありながら、どこか固い決意を帯びている。


 私は口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。

 北条は机にファイルを広げ、一枚の古びた調書を私の前に差し出す。

 その紙の中央に、名前が刻まれていた。


 ――七瀬奈々。


 視線が吸い寄せられる。

 たった三文字が、胸の奥に重くのしかかる。

 記録には二十年前の失踪事件。年齢、当時の住所、そして「未解決」の文字。


 「……これ、あなたが口にした“奈々”という名前だ」

 北条の声は淡々としていたが、その目は私を射抜いていた。

 「心当たりはないか?」


 私は頭を振った。

 けれど、その瞬間、胸の奥で鈍い痛みが走る。

 小さな光景が、脳裏に揺らぎのように浮かんだからだ。


 雨の夜、細い路地。

 手を引かれて走る。

 誰かの笑い声――その声が、奈々、と呼んでいた。


 「……分からない」

 絞り出すように言った。

 嘘ではない。思い出そうとするほど、記憶は黒い幕で覆われる。


 北条はしばらく私を見つめ、それから小さくうなずいた。

 「分からなくてもいい。だが、あなたの記憶の中に確かに“奈々”はいる。これは偶然じゃない」


 彼はもう一枚、証拠写真を見せてきた。

 現場で採取された水滴の拡大写真。

 「これは血液反応が出た。侵入者が怪我をしていた可能性が高い」


 私は息を呑んだ。

 自分が寝ている間、あの部屋に血を流した誰かがいた。

 そして、その誰かが“奈々”を呼び覚まそうとしている。


 「あなたを狙っている者は、過去を知っている。……七瀬奈々と、あなたの記憶。これが鍵になるはずだ」

 北条の声は低く、だが確信に満ちていた。


 私は机の上の文字をもう一度見つめた。

 “奈々”。

 唇が震え、無意識にその名をつぶやいていた。


 「奈々……」


 言葉にした瞬間、また新たな断片が蘇った。

 古いアパートの階段。

 錆びた手すりに腰をかける若い女。

 笑って私に「逃げろ」と囁いた唇。


 思わず頭を抱える。

 こめかみを締めつけるような痛み。

 北条の声が遠くで響いた。


 「大丈夫か?」


 私は答えられなかった。

 だが確かに今、私の奥底から“奈々”の影が形を成し始めている。

 それは恐怖であると同時に、抗いがたい真実の引力だった。

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