第七十三章 揺らぐ証言
ドアの前に立った瞬間、私は肺が焼けるような息切れを覚えていた。
全力で階段を駆け上がったせいもあるが、それ以上に、ドア越しに感じた“異様な気配”の余韻が、まだ身体の奥で震えていた。
「警察だ!」
怒鳴り声を張り上げたあと、しばらく耳を澄ます。
しかし、廊下の向こうは静まり返っている。
犯人の足音も、逃走の気配もない。
だが確かに、さっきまで“誰か”がこの部屋の前に立っていた――それだけは揺るがない事実だ。
私はポケットから合鍵を取り出し、慎重に解錠した。
ドアが軋む音とともに開くと、室内は沈黙に包まれていた。
リビングの隅で、被害者が崩れ落ちるように座り込み、震える両手で顔を覆っていた。
床には包丁が落ちている。
「大丈夫ですか!」
私は駆け寄り、肩に手を置いた。
被害者は涙に濡れた顔を上げ、必死に首を振った。
「……そこに……いたんです。ドアの前に……ノックを……」
「見たんですか?」
「影だけ……でも……絶対に……」
震える声。
だがその瞳は、恐怖で固まりながらも、真実を訴えようとしていた。
私は頷き、まず窓とベランダを確認する。
雨で濡れた外気が漂い、カーテンがまだ揺れていた。
窓の下には雨水の溜まった手すり。そこに――うっすらと泥の跡。
――やはり来ていた。
私は歯を食いしばりながら、懐中電灯で足跡を照らした。
雨が流したせいで形は不鮮明だが、確かに人間の靴跡だ。
この高さまでよじ登れる奴……ただの空き巣じゃない。
計画的に、この部屋を狙ってきている。
背後で、被害者が小さくつぶやいた。
「……奈々が……」
その名を聞いた瞬間、私は振り返った。
「今、なんと言いました?」
「奈々が……そこにいる気がしたんです……記憶が……勝手に……」
彼女の言葉は途切れ途切れだが、その断片には重さがあった。
“奈々”――過去の失踪者の名前。
彼女の証言が正しければ、この事件は現在と過去をつなぐ一本の線になる。
私は深呼吸し、落ち着いた声を作った。
「大丈夫です。今夜はもう安心してください。警察がこの建物を徹底的に調べます」
そう告げながらも、胸の奥では別の感情が膨らんでいた。
――犯人は、確かに存在する。
しかも、彼女の過去の“奈々”と結び付いている。
部屋の照明の下、床に散った水滴が鈍く光っていた。
雨粒なのか、それとも……。
私はそれをティッシュに吸い取って、証拠袋に収めた。
この一滴が、真実を引き寄せるかもしれない。
「……刑事さん」
呼びかけられて振り向くと、被害者は怯えたまま、それでも私の目をじっと見つめていた。
「助けてください……奈々を……そして……私を……」
その声は、泣き出しそうな少女のようでありながら、必死に現実と過去を切り離そうとする大人のものでもあった。
私は短く頷いた。
「必ず、助けます。あなたも、奈々も」
だがその誓いの裏で、私は気づいていた。
この事件は、想像以上に深く、そして危険な闇を抱えている。
侵入者は今も、どこかでこちらを見ているのかもしれない――。




