第七十二章 闇の訪問者
時間の感覚が狂っていく。
電話を切ったあと、部屋の中に広がったのは、ただ自分の鼓動の音だけだった。
ドクン、ドクン、と耳の奥で血液が脈打つ。
その間にも、エレベーターの「チン」という乾いた音が確かに聞こえた。
――誰かが上がってきた。
私は膝を抱えて壁に背を押し付けた。
呼吸が早すぎて、肺が痛い。
頭のどこかで「刑事が来る」「助けが来る」と繰り返す。
けれど、もう一方の思考が冷たくささやく。
――その前に、奴が来る。
ドアの向こうで、かすかな足音。
私の部屋の前で止まった気配がする。
喉の奥で声が勝手に震えた。
「……奈々……」
どうして、その名前が出たのかわからない。
でも、口にした瞬間、記憶の断片が鋭く蘇った。
暗い部屋。
目隠しをされた奈々が、両手を後ろに縛られて椅子に座っている。
私はその場にいた。
見ていただけ。
声を出すことも、助けることもできず――ただ「見せられていた」。
そのとき、ドアノブがかすかに揺れた。
現実に引き戻され、私は息を呑む。
鍵はかけてある。
でも、ドアの向こうの存在は確かにそこにいる。
耳を澄ますと、呼吸音さえ感じるほどの静けさ。
私は携帯を握りしめた。
再び刑事に電話を――そう思った瞬間、視界の端で何かが動いた。
――ベランダ。
カーテンがわずかに揺れた。
外は雨の夜。
風で揺れた? そう思いたかった。
でも、窓ガラスに伝う水滴の向こうに、一瞬、黒い影が映った。
「いや……いやだ……」
頭がぐらぐらする。
奈々が泣き叫ぶ声と、現実の自分の声が重なり合う。
誰かが私を“見ている”。
あの時と同じように。
私は震える手で、引き出しからキッチン用の包丁を取り出した。
刃先がランプの光を反射して、不安定に揺れる。
心臓は破裂しそうで、膝は今にも折れそうだ。
だが、次の瞬間。
――ノック。
乾いた音が、ドアを震わせた。
一度。二度。三度。
規則的で、異様に静かなノック。
私は息を止めた。
声が出せない。
頭の中で、過去と現在が混ざり合う。
奈々が最後に叫んだ声。
「助けて」と何度も繰り返すあの声。
私の喉から、同じ言葉が漏れた。
「……たすけて……」
その瞬間、廊下の奥から別の音が響いた。
重い靴音。
そして、男の怒鳴り声。
「警察だ! そこから離れろ!」
私は弾かれるように顔を上げた。
ドアの向こうの気配が、一瞬で散る。
まるで音もなく闇に溶けるように消えていった。
胸に突き刺さっていた刃のような恐怖が、わずかに緩んだ。
だが、震えは止まらない。
私は包丁を取り落とし、その場に崩れ落ちた。
涙があふれ、声にならない嗚咽が広がる。
――助かったのか?
それとも、これはまだ始まりにすぎないのか?
私の頭の中で、答えの出ない問いがぐるぐると渦を巻いた。




