第七十一章 走る決意
夜更けの署内。
書類の山とにらめっこをしていた私のスマートフォンが、けたたましく震えた。
画面に表示された名前を見た瞬間、胸の奥に緊張が走る。
――被害者だ。
「もしもし、どうしたの?」
受話器越しに聞こえる声は、震えていた。
雑音混じりの息遣い、その隙間に押し殺した悲鳴。
そして、かすれた声が告げた。
「……誰かが、外にいる。見てる……」
一気に血が逆流したような感覚に襲われた。
私は立ち上がり、机にあったファイルを乱暴に押しのける。
「落ち着いて。ドアには絶対に近づかないで。部屋の鍵はかけてある?」
「かけてる……でも、エレベーターの音が……」
その瞬間、私の脳裏に最悪の想像が浮かぶ。
社長。
あの男なら、平気で“処理”を命じる。
そして、ためらわずに人を使う。
「すぐ行く。絶対に動かないで」
私は強い口調で告げ、電話を切った。
椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、拳銃を腰に差す。
外は雨。
しかしためらう理由などない。
駆け下りる廊下の途中で、ふと足が止まった。
胸の奥に、不意に冷たい影が広がる。
――過去の自分。
私がかつて嗜んだ、危うい嗜好。
縛られ、追い詰められる人間を見るたび、どこかで別の感情が顔を出そうとする。
恐怖と快楽の境界を覗き込んでしまう自分。
だが、それを打ち消すように歯を食いしばった。
私は刑事だ。
嗜好に囚われるのは私自身の問題だが、目の前の命を救うのは職務であり、責任だ。
私はハンドルを強く握りしめ、エンジンを唸らせた。
ワイパーが雨粒を必死に払いのける。
赤信号を待つ余裕もない。
サイレンを鳴らし、街を切り裂くように車を飛ばした。
心の奥で、不安と焦燥が交錯する。
間に合うのか。
被害者は今も震えながら、あの部屋で助けを待っている。
もし私が一歩遅れれば――奈々と同じ結末を辿るかもしれない。
唇を噛み、雨に濡れたハンドルに力を込める。
「絶対に……今度は間に合わせる」
過去に救えなかった奈々。
その悔恨が、エンジンの唸りに重なる。
夜の街を裂くように、パトカーは被害者のマンションへと突き進んでいった。




