第六十七章 閉じ込められた声
夜、病室の灯りが落ち、窓の外に街灯の淡い光が射し込んでいる。
カーテンの隙間から覗くその光は、どこか監視の目のようで、眠ろうとしても瞼が重くならなかった。
横たわりながら、私はずっと考えていた。
――あの「長い髪の女」は誰だったのか。
刑事に話したとき、自分でも半ば幻覚だと思っていた。だが言葉にした瞬間、胸の奥に妙な確信が生まれたのだ。確かに“いた”と。
意識が冴えるほどに、忘れていたはずの断片が次々と甦ってくる。
湿った地下室の空気。
錆びた鉄のにおい。
そして、闇の奥から聞こえてきた微かな声。
――「ここから出たい……」
当時、私はそれを自分の幻聴だと処理していた。極度の緊張と恐怖で頭がおかしくなっているのだ、と。
だが今、その声の震えまでがはっきり耳に蘇ってくる。あれは確かに誰かの声だった。
記憶を掘り下げようとすると、頭の奥に鈍い痛みが走った。
けれど、痛みを無視してでも思い出さなければならない気がした。
私が証言しなければ、あの少女は永遠に“いなかったこと”にされてしまう。
……ある夜のこと。
社長が部屋から姿を消した隙に、私は鎖を引きずりながら床を這った。
隣室の壁の隙間から、かすかな光が漏れていた。覗き込むと、そこに影があった。
髪の長い、やせ細った少女。
彼女はぼろ布のような服をまとい、床に座り込んでいた。
私の視線に気づくと、驚いたように目を見開き、それから声を押し殺すように囁いた。
――「あなたも……捕まったの?」
私は涙が出そうになるのを必死で堪え、頷いた。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく名を告げた。
――「……ナナ」
その響きが、今になって全ての点を繋げていく。
そうだ、あの子は「奈々」と名乗ったのだ。
記憶の中の奈々は、必死に私へ何かを伝えようとしていた。
声は途切れ途切れで、よく聞き取れなかった。
「家族に……」「ここに……何人も……」「消される」
意味を完全に掴めないまま、私は社長の足音に怯えて口を閉ざした。
翌朝、奈々の姿はもうどこにもなかった。
鎖の音、床の擦れる気配――すべてが消え去り、まるで最初から存在していなかったかのように。
私はその現実に耐えきれず、意識を閉ざしたのだろう。
だが今、彼女の声と名が鮮明に蘇ってくる。
「ナナ」。
その名を心の中で繰り返すほどに、胸に焼けつくような痛みが広がった。
私はシーツを握りしめた。
彼女の存在を思い出した今、ただの幻覚だったと自分を誤魔化すことはできない。
奈々は確かに生きてそこにいた。
そして――私が逃げ延びたときには、もう“いなくなっていた”。
どこへ消えたのか。
社長がどうしたのか。
答えはまだ闇の中だ。
だが、少なくとも一つだけ確かなことがある。
彼女の声は、いまだに私の中で消えずに響き続けている。
――「ここから出たい……」
私は震える手で枕元のナースコールを押した。
刑事に、もっと話さなければならない。
忘れてしまえば、本当に奈々はこの世に存在しなかったことにされてしまう。
たとえ断片でも、私の記憶が彼女の唯一の証拠なのだから。




