第六十三章 囁きの残響
眠りにつこうと目を閉じた瞬間、またあの声が脳裏をよぎった。
――「もう少しの辛抱だから」。
薄暗い地下室、鉄格子の向こうで皿を差し出す白い指。
照明が弱くて顔はよく見えなかった。けれど、その指の震えを、今でもはっきり覚えている。
あのとき、彼女も怯えていたのだ。
私はベッドの上で身を起こし、膝を抱えながら記憶を掘り起こした。
食事を運ぶのは、スーツ姿の男がほとんどだった。だが週に一度か二度、必ず彼女が現れた。
背は高くない。細い肩。
髪は腰まで届くほど長く、黒とも茶ともつかない色をしていた。
そして……かすかな香水の匂い。地下室には似つかわしくない、甘い匂い。
「あなたは誰……?」
声に出してつぶやく。だが答えは返らない。
ある夜、私は思い切って声をかけた。
「お願い、助けて……ここから出して」
彼女は一瞬、立ち止まった気がした。だが次の瞬間には、皿を音も立てずに置き、背を向けていた。
その後ろ姿が、今でも胸を締め付ける。
――彼女は敵だったのか、それとも味方だったのか。
外に出てから日々の喧騒の中で、記憶は曖昧になり、夢と現実の境目もあいまいになっていた。
けれど今、刑事たちが「長い髪の女」の話に真剣に耳を傾けてくれたことで、心の奥に眠っていた映像が蘇りつつある。
私はベッドサイドのナースコールに手を伸ばした。
――彼女のことを、もっと詳しく話さなければならない。
あの囁きは、ただの幻覚なんかじゃない。確かに、私を縛る鎖の中で唯一の温もりだった。
もし彼女がまだどこかで囚われているのだとしたら――今度は私が、彼女を助ける番なのかもしれない。




