第六十一章 囁きの残響
目を閉じると、闇の中から声が浮かび上がってくる。
――「ごめんね」。
小さく、震えていて、今にも消えそうな女の声。
夢なのか、現実なのか。
私は毛布の端を握りしめた。病院の部屋の匂いがする。けれど瞼の裏では、あの暗い部屋の湿った空気が蘇る。
食事を運んできたときのこと。
金属の皿が床に置かれる音。
視線を上げても、女は私と目を合わせようとしなかった。
白いマスクで顔を隠し、長い髪を後ろに束ねていた。
――長い髪。
そこまで思い出した瞬間、心臓が強く脈打った。
私は看護師に呼びかけかけて、喉の奥で声をつまらせた。
本当に、いたのだろうか。
眠りの淵で、彼女は皿を置きながら微かに囁いた。
「……もう少しの辛抱だから」
あれは幻聴? それとも――助けようとしてくれていた?
私は枕に顔を埋め、目をきつく閉じる。
思い出すたび、胸の奥で冷たい針が刺さるように痛む。
あの女は敵だったのか、それとも……同じように囚われていたのか。
ふと、ナースコールの灯りが点滅しているのに気づいた。誰かが隣の病室で呼んだらしい。静かな廊下を足音が行き来する。
私は小さく震えながら、心の中で繰り返した。
――彼女はいた。
幻じゃない。
でも、顔が思い出せない。
名前も、声の高さも、どこか霧がかかったように曖昧だ。
もし、また彼女が現れたら。
私を助けてくれる? それとも再び鎖を強める?
どちらにせよ、あの囁きはまだ私の耳の奥に残っている。
逃げられない。
「見えない鎖」は、まだ私を縛っていた。




