第五十九章 もう一人の影
点滴の滴る音が、病室の静寂をゆっくりと刻んでいた。
私は白い天井を見つめながら、心の奥に絡みつく暗闇と戦っていた。
昨日、刑事の人に言ったこと――「もう一人の女の人がいた」。
その言葉を吐き出した瞬間、胸の奥に押し込めていた何かが弾けたように、夢のような記憶が少しずつ溢れ出してきている。
あの部屋。
薄暗くて、壁に何もなかった部屋。
食事を運んできたのは、いつも“あの人”だった。
彼――仮面の男が部屋を出ていくと、しばらくして静かに扉が開く。
トレイを持った女の人が、足音を忍ばせるように現れるのだ。
年齢は……二十代くらいだろうか。髪は肩にかかるくらいで、目は伏せがちだった。
でも、声は優しかった。
「……食べて」
囁くようにして置いていく。
最初は怖かった。彼と同じ仲間だと思ったから。
でも、数日が過ぎるうちに、私はその人に対して微かな安堵を覚えるようになった。
彼女は視線を合わせない。決して私に触れない。
ただ食事を運び、静かに去っていく。
その無表情の横顔に、時折ほんのわずかな「躊躇い」が見えた気がした。
――あの人は、共犯者だったのだろうか。
それとも、ただ命令されて従っていただけだったのだろうか。
記憶は断片的に途切れる。
けれど一度だけ、確かに聞いたことがある。
扉を閉め際、彼女が小さく呟いた。
「……ごめんね」
その声は震えていた。
その瞬間、私は理解できなかった。
敵なのか、味方なのか。
救いなのか、裏切りなのか。
今も答えは出ない。
けれど、あの声が頭から離れないのだ。
私は布団の中で膝を抱きしめ、爪を掌に食い込ませた。
――誰かに言わなければ。
でも言葉にした途端、あの部屋に戻されるような気がして怖い。
ドアの外では、刑事たちの足音が響いている。
彼らは真実を知りたがっている。
けれど、私が話せば話すほど、あの女の人の姿が鮮明になっていく。
まるで、また目の前に現れるかのように。
私は息を詰めた。
暗闇の中で差し伸べられた「ごめんね」という声。
それは慰めか、それとも罪の告白か。
見えない鎖は、まだ私を縛っている。
自由になったはずの身体なのに、心はあの部屋に置き去りのまま。
そしてその鎖の一端を握っているのは――仮面の男だけでなく、“もう一人の女”なのだ。




