第五十八章 重い沈黙
病院の廊下には、消毒液の匂いが濃く漂っていた。
私――桐生は、警察手帳を胸ポケットに押し込みながら、病室の前で深く息を吐く。
取調室よりも静かなこの場所で、私はこれから最も難しい「事情聴取」を行わねばならない。
ドアの前には若い巡査が立っていた。
「外部取材はすべてシャットアウトしました。ただ……マスコミが入口に殺到しています」
彼の報告に私は頷いた。
予想通りだ。未成年少女の監禁事件。世間の関心は異様なほど高い。
だが、彼女を“見世物”にするわけにはいかない。
ノックをして、病室に入る。
ベッドの上に横たわる少女は、昨日より少し顔色が良かった。
だが、肩をすくめるように身体を縮め、視線は床に落ちたままだ。
「桐生です。覚えてる?」
ゆっくり声をかけると、彼女はかすかに頷いた。
それだけで少し安堵する。
だが次の瞬間、沈黙が二人の間に落ちる。
私は椅子に腰を下ろし、手帳を開いた。
「無理に答えなくていい。でも、少しずつ思い出せることを聞かせてほしい。――君を監禁していた人物のことを」
少女の指先が布団を握りしめる。
口を開こうとして、言葉にならない。
その沈黙が、彼女の受けた恐怖を雄弁に物語っていた。
「大丈夫。ゆっくりでいい」
私はそう告げながら、待つことにした。
記録よりも、まずは彼女が「語れる」ようになることが大事だった。
やがて、震える声が漏れた。
「……顔は……いつも、仮面を……」
その先は、喉が詰まったように続かなかった。
私は急がず、ただ静かに頷いた。
――仮面。やはり、意図的に身元を隠していたのか。
部屋の外から、報道陣のざわめきがかすかに聞こえてくる。
「被害者の素性は?」「監禁の期間は?」――そんな言葉が飛び交っているのだろう。
だがこの病室の中では、それらすべてが遠い。
私にとって必要なのは、少女の声だけだ。
「……ひとりじゃなかった」
彼女の唇が再び動いた。
私は息を呑む。
「もう一人……女の人が……時々、食事を……」
ノートに走らせるペンの音が、やけに大きく響いた。
――共犯。
事件は、まだ終わっていない。
少女はその一言を吐き出すと、疲れ果てたように瞳を閉じた。
私はそれ以上追及せず、静かに席を立つ。
廊下に出ると、外の騒音が一気に押し寄せてきた。
世間は事件の「真相」を求めている。
だが、私が守るべきは、まだ傷だらけの一人の少女だ。
記者のフラッシュを浴びながら、私は心に誓う。
――必ずこの鎖を断ち切る。
彼女を縛り続ける、見えない鎖を。




