第五十六章 崩れゆく檻
地下室から出た瞬間、肺の奥に冷たい空気が流れ込んだ。
長い時間こもっていた地下の湿気とは違う、澄んだ夜気。
だがそれは、私に安堵を与えるよりも、痛みを際立たせる。
肩の裂傷はまだ止血できておらず、足を引きずるたびに視界が揺れた。
だが――そんなことはどうでもいい。
私の隣には、少女がいる。
怯えた瞳の奥に、微かに光が宿っているのを見た。
それだけで、まだ立っていられる。
「搬送車を! 至急!」
地上で待機していた隊員が駆け寄ってくる。
私は短く指示を飛ばすと、少女の肩を抱いて車へと導いた。
彼女の身体は痩せ細り、軽すぎるほどだった。
十二年という時の重さが、こんな形で刻まれている。
搬送車の扉が閉まり、サイレンが遠ざかる。
その音を聞きながら、私はようやく背筋を伸ばした。
だが、胸の奥には重い澱のようなものが残っていた。
――影。
本名も、素性も、いまだ霧の中だ。
表の顔は名の知れた経営者、家庭人。
裏では長年にわたり一人の人間を監禁し続けていた。
その二面性の裂け目に、私は強い既視感を覚える。
人は簡単に“怪物”にはならない。
だが、静かに、ゆっくりと、目を逸らされない場所で育ってしまう。
社会のどこに穴があったのか。
その問いが頭から離れなかった。
「刑事さん、大丈夫ですか?」
背後から同僚の声が飛ぶ。
振り返ると、現場に残された地下室の入り口で鑑識が動き出していた。
カメラのフラッシュが幾度も光り、残酷な記憶を切り取っていく。
「……中を徹底的に洗え。痕跡を一つも逃すな」
声を出した瞬間、傷口が疼いた。
だが今は痛みなど構っていられない。
あの檻に何が残されているのか、それを解き明かさなければ、少女は本当には解放されない。
搬送車の赤色灯が闇に消えていくのを見届けながら、私は拳を握った。
影はもういない。
だが、影が作り上げた檻はまだこの街に、社会に、そして彼女の心の中に残っている。
それを壊すのが、自分の役目だ。
夜空を見上げると、月は雲に隠れていた。
だが――その向こうには、確かに光がある。
私は息を整え、現場に戻った。
この物語は、まだ終わっていない。




