第四十三章 呼び声
病院を退院してから、一週間が経った。
真新しいアパートの一室。市の支援で用意された簡素な部屋には、必要最低限の家具と電化製品が揃っていた。
冷蔵庫は新しい匂いがする。カーテンは淡いグレーで、窓からは夕暮れの街並みが見えた。
「これで普通の生活が始まるのよ」
そう言い聞かせるように声に出す。
だが、心はまるで安らがなかった。
昼間は福祉士が訪れて、買い物や炊事の仕方を教えてくれる。
シャワーの使い方、電子レンジの操作方法、公共料金の支払い方――。
何もかもが初めてで、子どものように一から学ばなければならなかった。
夜になると、静けさが部屋を満たす。
その沈黙の中で、心の奥底から声が浮かび上がってくる。
――帰ってこい。
――まだ終わっていない。
耳をふさいでも消えない。夢の中では地下室の匂い、鉄の檻の感触が蘇る。
目を覚ましたときには汗でパジャマがぐっしょり濡れていることもあった。
「違う……もう解放されたの。私は自由なの」
そう繰り返しても、身体は覚えている。
鎖の重さを、監視の視線を、支配の声を。
ある夜、布団の中でスマートフォンを手にした。
支援センターが貸与してくれた簡単な機種。
検索窓に指を伸ばす。
――“篠崎邸 事件”
そこには、逮捕の報道や世間の憶測、匿名の書き込みが並んでいた。
「地下に檻があったらしい」「何人も閉じ込めていたのでは」「まだ他に被害者がいるのではないか」
その文字が胸をえぐった。
“まだ他に被害者がいる”
心臓が早鐘を打つ。
あの夢で聞いた声。あれは幻覚なんかじゃない。
もう一つの檻、もう一人の影。
私は……知っている。
立ち上がり、クローゼットを開ける。
支援員が買ってきてくれた外出用のコートがかかっていた。
着替えようとして、ふと鏡に映る自分を見た。
やつれた頬。うつろな目。
まだ「社会」に溶け込める顔をしていない。
だが、その目の奥には燃えるような焦りがあった。
――戻らなければ。
気づけば、夜の街に足を踏み出していた。
冷たい風が頬を切る。
バスも電車も、まだ使い方がわからない。だから歩いた。
頭の中に焼き付いている地図を頼りに、ただひたすら。
篠崎邸の方向へ。
途中、パトカーのサイレンが遠くで鳴った。
その音が背中を押すように、足を速める。
「待ってて……必ず見つけるから」
口の中でそうつぶやいたとき、涙が一筋、頬を伝った。
それは恐怖ではなく、決意の涙だった。




