第三十九章 外の空気
病室の窓から差し込む陽の光は、どこか作りもののように感じられた。
十年以上、地下室で暮らしてきた私の目には、白すぎて、まぶしすぎて、現実味を欠いていた。
「そろそろ退院の準備を始めましょう」
担当医がそう言った時、私は頷いたふりをしただけだった。
――外の世界。
自由を夢見ていたはずなのに、実際にそこへ踏み出すとなると、胸の奥から黒い塊のような不安が湧き上がってくる。
病院の心理士に勧められて、外来の庭に出る練習を始めた。
久しぶりに足を踏み出したアスファルトの感触は冷たく、歩くたびに地面が揺れているように思えた。
頭上を通り過ぎる鳥の影に、思わず身をすくめてしまう。
ただの雀なのに。
「大丈夫ですよ、ゆっくりでいいんです」
心理士が隣で声をかけてくれる。
でも私は、彼女の言葉の端々にある「普通の生活」という響きに怯えていた。
普通――それは私にとって最も遠い言葉だ。
十二年間、檻の中で裸のまま、ただ命令に従う存在として生きてきた私に、普通の生活など戻ってくるのだろうか。
庭に設けられたベンチに腰を下ろした時、不意に風が吹いてきた。
柔らかな風。
だけどその瞬間、私は嗅覚を通じてあの地下室の空気を思い出してしまった。
湿った鉄の匂い、閉じ込められた排泄物の臭い、彼の香水と混じり合った、逃げ場のない匂い。
喉が詰まり、呼吸ができなくなる。
「……っ」
私は必死に胸を押さえた。
心理士が慌てて声をかけてくるが、その声も遠ざかっていく。
――見えない鎖。
病院の外に出ても、私はまだそれに縛られている。
太陽の下にいても、檻の中の暗闇が私の視界を覆う。
ふと、誰かの視線を感じて振り返った。
庭の外、通りを歩く人々の中に、スーツ姿の男が立ち止まり、こちらを見ていたような気がした。
――彼だ。
心臓が跳ねる。
いや、そんなはずはない。彼は拘置所にいる。
それでも私は立ち上がり、病室へ駆け戻った。
足は震え、視界は滲み、胸の奥では「逃げろ、逃げろ」という声が響き続けていた。
ベッドに潜り込み、シーツを頭からかぶる。
息を殺して、やっと少し落ち着いた時、私は悟った。
――退院なんて、できるはずがない。
私はまだ外の世界に出る準備なんてできていないのだ。




