第三十七章 耳に残る声
白い壁、白い天井、白いシーツ。
目を開けても閉じても、世界は白に包まれていた。
ここが病院であることは理解している。けれども、胸の奥に染みついた色は、十二年間過ごしたあの地下室の灰色と黒だ。
「……おはようございます」
カーテン越しに声がした。看護師が笑顔を見せてくれる。
私は小さくうなずくだけだった。
食事の時間になっても、箸を持つ手が震える。
誰かに「食べなさい」と命じられなければ、口に運ぶことができない。
そして、頭の中に響くのは――あの人の声だ。
――ほら、ちゃんと口を開けて。
――噛むのは十回、そうだ、それでいい。
――お利口だな。私だけのお人形。
耳を塞いでも消えない。
「聞こえない、聞こえない……」
無意識に口からこぼれた呟きに、自分自身が驚いた。
ベッド脇の机には、小さな鏡が置かれていた。看護師が髪を整えるために持ってきたものだ。
覗き込むと、そこにいるのは「二十四歳の私」だった。
けれども、瞳の奥に映る影は、十二歳のままの私だった。
「本当に、私は大人になっているの……?」
声は震え、涙が頬を伝った。
扉が開き、女刑事が入ってきた。彼女は優しい目をしていた。
「体調はどう?」
私は言葉に詰まる。どう答えればいいのか分からない。
「……あの人の声が、まだ聞こえるんです」
やっと絞り出した言葉に、刑事は眉をひそめた。
だが、否定はしなかった。ただ私の手を握り、静かに言った。
「大丈夫。あなたはもう自由よ。でも、声が消えるには時間がかかるかもしれない」
その言葉を聞いて、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
けれども同時に、胸の奥がざわめいた。
――自由? 本当に?
誰もいない夜、病院の天井を見つめながら思う。
もし自由になったのだとして、私はどうやって生きればいいのだろう。
命じられなければ食べられず、許されなければ眠れない。
そんな私に、外の世界は耐えられるのか。
「……鎖は、まだある」
囁いた自分の声に、ぞっとした。
あの人が言った言葉が、まるで呪いのように心に絡みついていた。




