第三十五章 白い天井の下で
目を開けた瞬間、まぶしさに瞼を閉じた。
長い間、地下室の薄暗さに慣れた目には、病院の白い天井が痛いほど強く感じられた。消毒液の匂い、シーツの清潔な香り。どれも、十二年間の生活では嗅ぐことのなかった匂いだ。
「……ここは」
声に出すと、自分の声がかすれているのに気づく。
ベッドの脇に座っていた看護師が振り向いた。
「大丈夫ですよ、ここは病院です。あなたは保護されました」
その言葉は確かに優しい響きを持っていた。けれど、私の胸の奥には、すぐには届かなかった。
保護された。
そう言われても、何もかもが現実ではないように思えた。
体を動かそうとしたが、足が鉛のように重い。シーツの中の身体は痩せ細り、腕には点滴の針が刺さっている。十二年間で何度も飢えに近い生活を強いられてきた身体が、急に自由を与えられても、すぐに動けるはずがない。
ドアが開いた。刑事が入ってきた。あのとき檻を壊してくれた人だ。
「目が覚めたか」
彼は柔らかく声をかけてきた。
私は頷くことしかできなかった。
「無理に話さなくてもいい。ただ、君を守るために知っておきたいことがあるんだ」
そう言って彼は椅子に腰かけた。
頭の中に、篠崎の笑みが浮かぶ。檻の外から私を見下ろし、食事を与え、髪を切り、身体を洗った。あの視線、あの匂い、あの呼吸――全部がこびりついて離れない。
目を閉じれば、檻の鉄格子の冷たい感触が指先に蘇る。
「……まだ、そこにいる気がするんです」
私は思わず口にしていた。
刑事が眉をひそめる。
「そこ、とは?」
「地下室です。ここに来ても、まだ……檻の中に閉じ込められている気がする」
言葉を紡ぐほど、喉が痛む。だけど、吐き出さずにはいられなかった。
自由になったはずなのに、私の心は何一つ解放されていない。
看護師がそっと水を差し出してくれる。コップの中で氷が揺れ、かすかな音を立てた。その透明な冷たさを唇に触れさせた瞬間、涙があふれた。
十二年間、飲んできたのはぬるく濁った水だけだったのだ。こんな澄んだ水を口にすることが許されること自体、信じられなかった。
「君はもう檻の中にはいない」
刑事が強く言った。
「篠崎は拘束された。君は守られている」
その言葉を信じたいのに、胸の奥で別の声が囁く。
――違う、まだ終わっていない。
――あの人はただの檻じゃない。心に鎖を残していった。
十二年。
檻の中で過ごした時間は、私の半生を超えている。
子供だった私は、大人になった。
だが「大人になる」ということは、檻の外の世界を知らないまま、ただ時間だけを重ねることではなかったはずだ。
私は「人間」として生きることを、どこかで止められてしまったのだ。
「……外に出たら、どうやって生きていいのか分かりません」
そう呟いたとき、刑事は黙った。
しばらくの沈黙。
彼の瞳には、私を哀れむ色ではなく、重く受け止める色があった。
「一緒に探していこう。君の人生を取り戻す道を」
その言葉は優しかったが、やはり遠い。私の心に届くには、あまりに時間が必要だった。
ベッドの上で天井を見つめる。
白すぎる天井は、まるで無数の光で編まれた「新しい檻」のように見えた。
私は思う。
――この見えない鎖を解くのは、他の誰でもない。私自身しかいない。
けれど、そのために必要なものが何なのか、まだ見えていなかった。




