第三章 揺らぐ記憶
目を開けても、閉じても、世界は同じだった。
光は常に一定で、夜と昼の区別はなく、時計もない。時間の流れを感じるものは何ひとつ存在しなかった。
だから私は、眠ることが怖くなった。眠って、次に目を覚ましたとき、何日が経っているのか、何週間が経っているのか、わからなくなる。夢と現実の境目が溶け出して、昨日の出来事が数年前の記憶のように思えることさえある。
あるとき、ふいに母の声を思い出した。
「ちゃんと食べなさい」
その声はあまりに鮮明で、振り向けばそこに母がいる気がした。だけど、次の瞬間には空虚な檻の壁が目に入る。私は笑いそうになり、そして泣いた。
幻覚なのか、記憶の残滓なのか。区別がつかない。
気を抜けば、私はここで自分を失ってしまう。だから必死に「私は私だ」と繰り返した。名前を声に出して唱え、指折り数えて数字を並べ、歌を口ずさむ。それでなんとか自分の存在を繋ぎ止めていた。
でも、声を出すことにも疲れる。
喉が枯れ、息が苦しくなると、結局黙り込んでしまう。沈黙に包まれると、見えない鎖がより強く締めつけてくるように思えた。
食事のトレーが柵の外に置かれた。私は柵越しにそれを引き寄せ、無言で口に運ぶ。温かさはなく、味もほとんど感じない。けれど、食べなければ死んでしまう。生き延びることだけが、私に許された唯一の選択肢だった。
時々、上の階から生活の音がする。笑い声、足音、電話の着信音。それはあまりに普通で、私には遠い世界の音だった。あの向こうに、人間の暮らしがある。私が失った、当たり前の時間。
「どうして、私なのだろう」
その問いは、何度繰り返しても答えが見つからなかった。
ただ街を歩いていただけ。誰にでも起こり得る偶然が、私をここへ連れてきたのだ。
そして、時々怖くなる。
もし外へ出られたとして、私はもう普通の生活に戻れるのだろうか。
笑ったり、泣いたり、誰かと肩を並べて歩いたり。そんなことが本当にできるのだろうか。
檻の中に座り込み、膝を抱えて目を閉じる。
暗闇の中、記憶と幻想が入り混じる。過去の自分、未来の自分、そして今の自分が重なり合い、やがて境目を失っていく。
見えない鎖は、ただここにあるだけではなかった。
それは私の心の中にも伸び、自由を奪っていた。外の世界を夢見ることすら、少しずつ難しくなっていく。
もし誰かが助けに来てくれたとしても――そのとき、私はまだ「私」でいられるだろうか。




