第二十三章 檻の向こうに
その夜、地下室の空気がいつもと違っていた。
冷たいコンクリートの匂いに混じって、かすかに甘いシャンプーの香りが漂ってくる。十年以上、この場所に閉じ込められてきた私には、その違いをすぐに嗅ぎ分けることができた。
――誰かがいる。
檻の隙間から目を凝らすと、暗がりの奥に小さな人影が横たわっていた。
まだ意識がないのか、細い体がぐったりと横たわり、かすかな寝息だけが聞こえてくる。
幼い。声を発さずともわかる。十二歳、いやそれよりも小さく見えた。
胸の奥がひりつく。
私がこの檻に入れられたときと、同じ年頃。
何も知らないまま連れてこられ、名前も奪われ、ただ「飼われる存在」に変えられていった日々。
今、その繰り返しが目の前で始まろうとしている。
「……やめて」
思わず声が漏れた。だが、檻の鉄格子にぶつかって吸い込まれるだけで、誰にも届かない。
社長――篠崎は、新しい少女を床に転がしたまま檻の外からしばらく眺めていた。
その目は私を見ていた頃のものとは違っていた。
かつては歪んだ愛情と執着で私を見ていた。
だが今は、ただ「飽きたおもちゃ」を見下ろすような視線しか向けてこない。
「おまえの代わりは、もう来た」
低い声が、地下室に響いた。
その言葉で全身が凍りついた。
私は檻の鉄格子を握りしめ、叫んだ。
「違う! やめて! その子を離して!」
喉が裂けるほどの叫びも、篠崎は薄笑いで受け流す。
「お前も最初はそうだった。泣き叫び、逃げようとし、やがて諦めて――檻の中で生きることを覚えた。人間は慣れる生き物だ」
違う。慣れてなどいない。
私は今でも夢を見る。外の空、陽の光、自由に歩ける道。
ただ、それを声にしても届かないから、黙っていただけだ。
新しい少女が目を覚ましたのは、それからしばらくしてからだった。
うっすらと瞼を開き、状況が理解できず、怯えた瞳が彷徨う。
私と視線が合った。
鉄格子越しに、私の目と彼女の目が絡み合う。
「……ここ、どこ?」
震える声。かつて私も同じ言葉を吐いた。
どう答えればいいのか、わからなかった。
「……大丈夫。大丈夫だから」
自分でも空虚だとわかっている言葉しか出てこない。
本当は大丈夫なんかじゃない。この檻に入れば、二度と外には出られないのだから。
篠崎が不快そうに鼻を鳴らした。
「無駄な慰めはするな。ここに来た以上、現実を知るだけだ」
私は心の中で絶叫していた。
――誰か、助けて。
この子だけは、私のように十二年を奪われる前に、誰かに見つけてもらわなければならない。
少女は混乱と恐怖に泣きじゃくり、必死に出口を探して床を這った。だが、この地下室に出口はない。
分厚い扉、遮断された窓、そして社長の目。
私は鉄格子に額を押しつけ、涙が流れるのを止められなかった。
「ごめんね……ごめんね……」
謝罪しかできない。
私もこの子を救いたいのに、檻の中では何もできない。
遠くでテレビの画面がまた点灯し、くだらない笑い声や音楽が流れ始めた。
それが、この地獄のBGM。
新しい犠牲者を歓迎する、皮肉なファンファーレのように聞こえた。
私は決意した。
この子を守るためなら、どんな手段でも使う。
たとえ私の命が失われようとも、この鎖を断ち切るために――。




