第二十章 匿名の声
梅雨の湿った空気が署内にこもっていた。
捜査一課の会議室で報告書をまとめていると、私の机に一枚の封筒が置かれていることに気づいた。
差出人の名前はなく、宛名も「相沢刑事様」とだけ書かれていた。
中身を確認すると、打ち込まれた文字が数行。
――「篠崎の家を調べろ。地下に檻がある。女がいる」
思わず息を呑んだ。
篠崎という名は、ここ数週間の捜査でたびたび浮かんでいた。
大手企業の創業社長、六十二歳。表向きは堅実な実業家であり、慈善活動にも熱心。地元では模範的な人物として知られている。
だがその陰で、行方不明事件との奇妙な接点があることが、私の中でどうしても拭いきれなかった。
先日の失踪者リスト。二十四歳女性――十二年前から行方不明扱いになっていた。
彼女の顔写真と、篠崎が秘書として雇っていた若い女性の姿が、どこか似ていると感じていた。
だが確証はなく、ただの勘だと同僚からは笑われた。
今回の匿名情報は、その「勘」を裏付けるもののように思えた。
地下に檻。女。
どれも常軌を逸した内容だが、信じるに値する「何か」を孕んでいる。
私は封筒を握りしめ、デスクを離れた。
「相沢、どこ行く?」と同僚が声をかけてきたが、「ちょっと外回り」とだけ答えた。
篠崎の豪邸は、郊外の高級住宅街にあった。
門構えからして近寄りがたい雰囲気を放っている。
だが周囲を軽く歩き回ってみると、庭の片隅に通気口らしき構造物があるのを見つけた。
普通の住宅にしては不自然な大きさ。地下へ空気を送るためのものにしか見えない。
「……やはり、あるのか」
胸の奥がざわめいた。
そのとき、背後から声をかけられた。
「刑事さん?」
振り返ると、近所の中年女性が犬を連れて立っていた。
私は咄嗟に笑みを作り、「散歩中ですか」とごまかした。
しかし彼女は小声で言った。
「夜中に、あの家から女の泣き声が聞こえることがあるんですよ」
背筋が凍りついた。
「泣き声?」
「ええ。はっきりとは聞こえませんけど……子どもみたいな声に聞こえることもあって。怖くて誰にも言えなかったんです」
その証言は、匿名の通報内容と一致していた。
私は女性に礼を述べ、すぐに署へ戻った。
だが問題はここからだ。
篠崎は権力と金を持つ男。彼の屋敷を捜索するには、裁判所の令状が必要だ。
証拠不十分のまま踏み込めば、逆にこちらが潰される可能性がある。
机に向かい、封筒と女性の証言を書き加えた報告書をまとめながら、私は深く息を吐いた。
「見えない鎖」――誰かの声が耳に残る。
あの地下には、まだ見つけられていない真実が眠っている。
放っておけば、また別の少女が犠牲になるかもしれない。
私は決意した。
必ず証拠を掴む。
篠崎の「地下」を暴き、閉じ込められた声を救い出す。
それが、この匿名の手紙に応える唯一の道だ。




