第十三章 もうひとつの影
階段を下りる足音が、重々しく響いた。
耳がその音に敏感に反応するのは、もう何百回も繰り返してきた習性だった。
篠崎が来る――そう理解するだけで、胸の奥に冷たい石が落ちる。
しかし、その夜はいつもと違った。
鉄の扉が開き、檻の向こうに新しい影が差し込んだのだ。
小さな体。怯え切った目。
――十二歳の少女。
彼女の心臓が跳ね上がった。
過去の自分を鏡で見せつけられたようだった。
細い手首、震える膝、言葉を発しようとしない唇。
自分もかつて、あの場所に立っていた。裸のまま、冷たい檻の中で。
「今日から、ここで暮らすんだ」
篠崎の声は、いつも通り冷たく淡々としていた。
少女を檻に押し込む仕草には、一片の感情も宿っていない。
それが日常の作業であるかのように。
扉が閉じられ、足音が遠ざかる。
残されたのは二人だけ。
長年の孤独に慣れかけていた世界に、突然現れた“もうひとつの影”。
彼女はしばらく、檻越しに少女を見つめ続けた。
少女は肩を抱きしめ、泣き声を押し殺している。
その震えが檻全体を伝わって、こちらまで響いてくるようだった。
声をかけるべきか、迷った。
いや、声などかければ余計に混乱させるだろう。
それに――何を言える?
「ここから逃げられない」
「あなたも同じ運命を辿る」
そんな残酷な真実しか知らないのに。
それでも、黙っていることの残酷さに気づく。
かつて自分が檻に入れられたとき、唯一欲しかったのは「誰かの声」だった。
それが嘘でも、本当でも。
ただ、自分は一人ではないと知りたかった。
喉が乾く。
それでも勇気を振り絞って、声を出した。
「……大丈夫」
たった二文字。
しかし少女ははっと顔を上げ、涙に濡れた目でこちらを見つめ返した。
その視線の中に、希望と絶望が交錯している。
「あなたは……誰?」
震える声。
彼女は答えに窮した。名前を口にすることは、もはや意味を持たなかった。
ここでの自分は「名前を奪われた存在」に過ぎない。
「……先にここにいる人間、ってだけ」
少女は唇を噛み、視線を落とした。
沈黙が再び二人を包み込む。
しかし、先ほどまでの孤独とは違う沈黙だった。
檻の中に二つの影があるというだけで、世界の色がわずかに変わった気がした。
やがて、少女が小さな声で言った。
「お母さんに、会いたい……」
その言葉は胸を抉った。
十二年前、自分も同じ言葉をつぶやいていた。
その願いがどれほど届かず、どれほど踏みにじられたかを知っている。
「……きっと、会えるよ」
咄嗟に口から出た言葉は、嘘だった。
だが、その嘘は少女の目から涙を和らげた。
わずかに、ほんのわずかに。
彼女は心の奥で葛藤した。
守らなければ――この子を。
だが、同時に冷酷な現実が囁く。
自分ですら十二年間、出口を見つけられなかったのだ。
この檻から逃れる術など、どこにも存在しない。
それでも。
少女の震える肩を見ていると、沈黙することは罪だと思えた。
希望が嘘でも、声をかけ続けること。
それだけが、この檻でできる唯一の抵抗だった。
――二つの影が、暗闇の中で寄り添う。
それは救いなのか、それとも新たな絶望の始まりなのか。
彼女にはまだ分からなかった。




