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7話

 この世界は12の神が生み出した、どこまでも広がる海の上に浮かぶ円状の大陸なのだと言う。

 1年間を示す12の月は、その名残。大地に産み落とされた人間たちは神に感謝し、神の名を12の月に名付けた。

「・・・へぇ」

 ルクは思わず感嘆の声を漏らした。

 レティシスの部屋から借りた本で得た知識だ。勿論、本人にはちゃんと許可を取って。そのおかげで、文字も多少は読めるようになってきた。

 ルクの部屋には、衣服を入れる小さなタンスと、一組の木製の机と椅子のみ。でも、ルクはそれで満足だ。

 真新しい机の上で、ハードカバーに視線を落としていたルクは、文字の羅列に目を回しそうになり、顔を上げる。

 奴隷の時から、ルクの世界はそこだけだった。

 外に出たことで世界は広がった。けど、それだけだ。本はもっと世界を広げてくれた。それと同時に、自分は何も知らない子供なのだと悟る。

「わたくしの部屋にある本はご自由にみて頂いて構いません」と、言われたことをきっかけに、ルクは本に興味を示す。

 世界は広い。

 地図を見ると、大きな大陸の中にあるアイゼアン王国は、豆粒のような点でしかない。この点の中に、あれだけの人の数がいるのだ。

「はあ」

 自分の小ささを思い知る。

 共に、世界の広さを知る。

・・・知らない、といえば。

 ルクは同居人であるレティシスのことを何も知らないのを思い出す。

 思慮深くて、冷静で。

 温かくて、優しくて。

・・・美人だ。

 そんな人がなぜ、自分何かを引き取ってくれたのだろう。

 例えレティシスが慈悲深い『聖母』だとしても、孤児を引き取る理由はない。

 ぱたん、とルクは本を閉じる。

 本を片手に部屋を出て、向かいの扉へ。

 こんこん、と躊躇いがちにノックをすると、扉の向こうから「はい」と声が聞こえた。気持ち一瞬の後、ゆっくりと扉を開ける。

 レティシスは裁縫をしている手を止め、現れたルクを笑顔で迎え入れた。

 先代神父の残った服を全てルクのサイズへ仕立て直している最中だった。

「あら、もうよろしいので?」

 ルクの手の中の本を見て、来訪の目的を察したのだろう。

「ぼくには、むずかしくて」

 世界の成り立ちなるページは時間を掛けながらもなんとなく理解はした。でも、その後に続くページにはさらなる難解な言葉が踊る。

「ふふ」と、レティシスは柔らかい笑みを浮かべる。

「そうですよね、難しいですよね。わたくしも全てを理解しているかと言えば、そうではないですし」

 ルクから本を受取り、レティシスはそれを本棚に収める。

「何か、読めるものはありますかねえ」

 レティシスは本棚を一瞥。

 本棚には大小様々。全面が埋まるほどの本で揃う。

「童話の絵本とかありますけど、いかがですか?」

 童話か。ちょっと子供っぽすぎる気がするけど。

「お、お願いします」

「はい」

 レティシスは本棚から数冊の本を抜き取る。

「よろしければ、お好きな本を買って頂いても大丈夫ですよ」

「え、あ、いいです!・・・ここにある本を読めるようになったら、お願いします」

 完全な遠慮は、逆にレティシスに気を使わせる。まだ理解力が乏しいのに、無駄な本を買わせるわけにはいかない。

 正直なことを言えば、ルクは本よりもレティシスのことを知りたかったのだ。本は、ちょっとしたきっかけに過ぎない。

 何が好きで、どんな本を呼んでいるのか。拙いながらに、それくらいしか思いつかなかった。

 重ねた本を抱えて、部屋を出る瞬間。

 レティシスは針山の乗る机に戻り、針に手を伸ばした。

「・・・レティシスさん」

 ルクは。

「はい?」

 意を決して、胸の中にある疑問を。

「どうして、ぼくを引き取ってくれたの?」

 聞いた。

 単純な疑問だ。

 この生活に何の不満はない。むしろ満足だ。幸せだ。

 レティシスは手にした針を針山に戻すと、ルクの元へ。

 優しくルクの両肩に手を添え、真っ直ぐと、目を逸らさずに見つめる。

「わたくしが、ルクさんを引き取ったのではありません」

 レティシスが何を行っているのか分からなかった。

「ルクさんが、わたくしに会いに来てくださったのです」

 そう言いながら、レティシスはルクの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめてくれた。

 ルクは、こうしてもらうといつも満ち足りた気分になる。身体の奥から熱が生まれ、心も暖かくなる。

 人前では遠慮したい所だけど、今は断る理由はない。だから、ルクはレティシスに身を委ねる。

「ルクさんが不安な時は、いつでもどこでも、こうして差し上げます」

 どこでも、は困るなあ。

 ルクはもう大丈夫です、の意味を込めてレティシスの身体に触れる。

 レティシスの顔は、不安という名の闇を晴らすかのような眩しい陽光。その輝きはどんな邪悪な心を持つ悪人ですら会心させるに違いない。

 ルクはそんなレティシスのことが誇りだし、頼りにしている。

 小難しくなく、簡潔に言おう。

 ぼくは、レティシスさんのことが。

 大好きだ。


 遠くから灰色の雲が迫ってくる。空も同じ色のものが広がっていて、珍しく天気の行き先は良くなさそうだった。この教会に来てから、こんな空模様は初めてだった。

 その色はあの時の光景を思い出させる。雨で喉を潤したり、ぬかるみに足が取られたり。惨めな思いしかなかった。

 でも、今はルクそんな天気も嫌ではなかった。それはもちろん安らげる場所があるからだろう。

「あ」

 窓に雨粒がひとつ落ちた。

 それを皮切りに、外の世界は雨音が断続的に鳴り始める。

 雨音を音楽に、ルクはレティシスに借りた本を広げようとすると。

 下の階から何か音がする。いや、それは人の声のような。

 扉を開け、廊下に出るとそれは確かに人の声だった。

「うおお〜い。ごめんよぉ〜」

 レティシスではない声が聞こえる。

 あれ、いないのかな。

 ルクは机に本を置き、おずおずと1階へ降りる。

 開け放たれた教会の扉。それにもたれかかるように、人影があった。

 男だ。 

 身体を雨粒で濡らしつつ、顔を真っ赤にさせている。

「おお?誰だボウズ。・・・姉ちゃんは?」

 たぶん、レティシスのことを言っているのだろう。

 ルクが一步足を踏み出そうとした時、炊事場からレティシスが姿を現した。来客の姿を見て、レティシスは珍しく目を細めた。

「・・・何か御用ですか?」

「へへ、神様にお祈りよぉ。ついでに水を1杯もらえると嬉しいんだけど。この水じゃ目は覚めなかったようで」

 そう言いながら、男はまばらに濡れた服を見て、笑う。

「だいぶ酔っておいでですね。昼間からいい御身分で」

「相変わらず手厳しいねぇ、シスターさんは」

 レティシスは胸で小さく息をして、炊事場に引き換えした。

 男は濡れた服を手ではたきながら、教会の中に入ってきた。

 大柄な男のその姿に、ルクは少し圧迫感を感じる。

 男がルクの側まで近づくと、その大きさが更に際立つ。

「お、そうか。ボウズがここに引き取られたとか言うガキんちょか」

 男はガシガシとルクの頭を乱雑に撫で回す。

 ルクは思わず顔をしかめた。

 それは頭を無理に撫でられたからではない。

 男からは今まで嗅いだことのない、不快な臭いがしたからだ。酔っている、と言っていたから、これがお酒の臭いなのだろう。

 鼻を通り抜ける、嫌な甘い匂い。こ胸の不快感が、ルクにはまだ早いという証拠。

「・・・何をそんなに怯えているんだ」

 男の声色が突然変わった。

「どいつもこいつも、俺のことをバカにしやがって・・・!」

 男の変貌の理由が分からない。

 ぐっ、と男がルクの胸ぐらを掴む。身体の小さなルクは、易易と男に掴み上げられる。

 何が起きているのか分からない。

 ただひとつ分かることは。

 自分はこの光景を覚えている。

 仕事が遅く、要領が悪かった時。

 兵士に叱責された。鞭で叩かれた。棒で叩かれた。

 痛かった。苦しかった。

 その記憶が。

 忘れかけていたのに。

 ひび割れた壁の向こうから。

 溢れ出そうになって。

「何をなさっているのですか!」

 がちゃんっ!

 その記憶を、レティシスの声と、ガラスの割れる音が引き戻した。

 水と透明の破片が床に撒き散らされる。

 今までに見たことのないくらい、レティシスは眉根を釣り上げている。そして、つかつかとこちらに早足で近づいてきて。

 グイ、と男とルクを引き剥がす。

「へ、へへ。冗談だよ。ちょっと遊んでやっただけじゃねえか、なあ」

「こんなに怯えているではありませんか!」

 レティシスの怒声にも、男は怯まない。むしろ、その矛先をルクから移動させる。

「下手に出ていりゃつけあがりやがって!神様のしもべだったら、俺にも慈悲をくれよぉ!」

 男がレティシスの腕を取る。力は強く細い腕は簡単に掴まれる。

 こんな時に、ルクは身体が動かない。床にへたり込み、ふたりの姿を見上げることしか出来ない。

 でも、レティシスは恐ろしいくらいに冷静だ。

「へへ・・・」

 男の下卑た表情がレティシスに向けられる。男の反対の手が、修道服に触れるか触れないか。

 瞬間。

 眩い閃光が走った。

 一瞬、ルクの視界のふたりの姿が消えた。

 最初、外で雷が落ちたのかと思った。

 でも、違うと思う。

 部屋を音もない白光で照らしたのは、雨雲が落とした稲光ではなかったからだ。

 再びルクの視界に入ったのは、立ったままのレティシス。彼女を掴みかかろうとしていた男は、レティシスの足元で腰を抜かして、首をあらぬ方向に向けて倒れていた。

・・・一体、何が起きたんだ?

 レティシスはしゃがみ込み、男の肩を揺すっている。

「・・・酔いは、覚めましたか?」

 打って変わって、レティシスは笑顔だ。でも、どこか作り笑顔っぽい。

「ぬ、んあ」

 何故か気を失っていた男は目を覚まし、頭を軽く振りながらも周囲を見回す。

「あ、れ。レティシスちゃん。何で。俺、ここで」

 混乱しているのか、男の言葉は途切れ途切れで要領を得ない。

「・・・もの凄く酔っておいででしたよ。お酒はほどほどにしてくださいね」

 男は釈然としない表情のまま、教会を去っていった。その様子を見送ったレティシスは、扉を閉める。

「ガナンさんは酒癖が悪いのが難点ですね。・・・あらあら、床がびしょびしょです。ガラスが割れているので、ルクさんは手を触れないようにしてくださいね」

 雨に濡れていた男のせいもあるだろう。滴る雫と割れたグラスからぶちまけられた水が床を容赦なく汚していた。

 炊事場の奥からほうきとちりとりを手に戻り、テキパキと産卵したガラス片を片付ける。

 気がつくと、ルクの身体も濡れている。身体が震えているのは、水に濡れたからだけではないだろう。

 久しく感じていなかった恐怖を思い出したから。

「すぐお風呂にしましょう。早々に沸かしておいてよかったです」

 レティシスの手を借り、ルクは力なく立ち上がる。

 下半身を情けなく濡らしつつ、風呂場に到着すると服を脱ぐのもレティシスが手伝ってくれた。そして、さも当たり前のようにレティシスも服を脱ぎだす。ただ、今はそれに反応することはない。  

 それよりもショックな出来事がルクを支配していたから。

「はい、どうぞ」

 浴槽には先にレティシスが入り、スタンバイ。

「・・・え?」

 さすがにルクは正気になる。

 初日もルクはレティシスと風呂に入った。でも、その時はお互い身体を丸めて向かい合って。

 でも今は。これだとレティシスという椅子の上に乗ることになるんですけど。

「わたくしは何の問題もありません」

 さ、と言わんばかりにレティシスはルクを招き入れようとする。

 うう・・・。

 普段は硬い浴槽の底が、今日はそれが溶けてしまったのかと思うくらいに柔らかい。

 胸に当たる豊かな膨らみも、お尻に当たる太腿も。

 レティシスは上機嫌で身体の中に収まるルクを抱きしめている。その間、お互いが裸であることを忘れてはならない。

「嫌なことはお湯に流してしまいましょう」

 優しさから来る行動なのだろうが、恥ずかしい。

「うふふ」

 さっきの悪夢を洗い流すように。

 レティシスの細く、しなやかな指先がルクの未成熟な肌にまとわりつく。

・・・・・・。

 なんだか。

 いつもより艶かしく感じるのは自分の気のせいだろうか。

 時折、耳元に感じるお湯の温度とは違う、別の温かさの吐息。

 酔っているのはレティシスの方ではないのか。

「・・・え?」

 じゃれつく猫ように、レティシスの指先がルクの顎に触れ、もう片方の手が耳を弄ぶように撫で回す。

「ふふ」

 不意に。

 熱く、焼けるような感触がルクの頬に当たる。

 レティシスの頬が、ルクに触れたのだ。

・・・怖い。

 いつものレティシスじゃないみたいで。

 ばしゃんっ!

 思わず、ルクはレティシスの戒めを振りほどいて。

「・・・はあ、はあ」

 その時のレティシスの顔は一瞬驚いた表情になり、すぐに申し訳無さそうに、伏せる。

 でも。今は違う恐怖がルクの身体を渦巻いていて。

 ばしゃ。

 レティシスが立ち上がる。

「すみません、ルクさん。・・・ルクさんはもう少し温まっていってくださいね」

 そう言いながら、浴場を後にした。

 悲しい顔をさせちゃった。

 ルクは浴槽に口元まで沈める。

・・・何だったんだろう。

 あの、ガナンという男の人も、ルクが瞬きを終える間には床に倒れていて。

 体格からして、レティシスがガナンに勝てる道理はない。

 ふと、ルクは騎士の宿舎での会話を思い出していた。

『魔女』、『化物』。

 曰く、永遠の美貌を保つため、生き血をすすりその姿を維持している。

 数十年、その姿が変わることがない、とも。

 ごく。

 ルクの喉が鳴る。

 不思議な力を操り、ガナンを気絶させた。

 ぶるり。

 湯船に浸かっているはずなのに、温かくない。

 もしかして。

 レティシスさんは。

 人間ではない?

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