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3話

 昼食の後。

 ルクは与えられた部屋で、ベッドの上に寝転んで休んでいた。

 夢みたいだ。

 太陽の匂いの布団。

 これも牢屋ではあり得なかったものだ。

 石畳だったそこは冷たく、快眠とは無縁の場所。まさに牢獄。

 城のベッドは収容された人間が多かったため、簡素ではあった。それでも牢屋とはまるで違う。

 誰に遠慮するでもなく、自由に手足が伸ばせるのだ。清潔な肌触りの良いシーツは絹糸のように滑らかで、心地いい。これ以上何かを望むなんて。神やレティシスが許しても、自分が許さない。

 ふと。

 開けた窓の向こうから何かが聞こえ、ルクは身を起こした。

 窓の外から見える眼下には、レティシスが大きな木の桶に衣服を入れて、洗濯の最中だった。

 泡が弾け、水音が跳ねる。跳ねた飛沫に光が反射して、煌めいていた。

 レティシスは洗濯の時でも足を丁寧に揃え、リズミカルに衣類を泡の中でこすり合わせている。レティシスのリズムで泡が生まれ、透明の球体が風に泳ぐ。

 レティシスは手をこすり合わせながら、時折首元を曲げている。ルクは慌ててベッドから飛び起きる。

 図らずも、ルクは幼いながらに奴隷生活の中で何かを得るには対価を支払うことを知った。そして、無慈悲にも何も得ること無く支払うだけの時もあった。

 そうでなければ、あの永遠とも呼べる地獄の中では生きられなかった。幼いルクならなおさらだ。

 早足で1階に下り、外へ飛び出す。裏手に回ると、2本の支柱に横に伸びる物干し台がそこにはあった。傍らには井戸水を汲むための鉄製のポンプが。

「あ、あの。手伝います」

 声を掛けると、レティシスは振り向いた。見ると、額には玉の汗が浮かんでいる。すぐにレティシスは汗の中に笑顔を浮かべる。

「お休みになられてていいんですよ?心も落ち着ける時間も必要でしょう」

 ルクにとって、ようやく手に入れた平穏だ。

 レティシスは、ほんの僅かな時間逡巡する。ルクの決意にも似た表情を感じ取ったから。その顔が硬かったのに、少し苦笑する。

「では、お洗濯はルクさんにお任せしてもよろしいですか?わたくしはお掃除をしてしまいたいので」

「ま、任せてください!」

 掃除、洗濯は奴隷時代もやっていた。劣悪で汚い環境を改善するのは自分たちでどうにかするしか無かったからだ。もっとも、それで室内が劇的に清潔になることは無かったけど。

 レティシスは泡まみれの手を水場で洗い流し、手を吹きながら「お願いします」という言葉を残して、洗濯場を去っていった。

「よし!」

 藍色の修道服が教会の中に消えていくのを見届けると、ルクは気合を入れる。

 腰を落とし、しゃがむ。袖をまくり、泡まみれの桶の中に手を突っ込んだ。

 井戸水は、手の中から容赦なく体温を奪ってくる。それくらい、冷たかった。

 手近な最初に触れた布を採ると、十分に泡をまとわせ、それを両手でこすり合わせる。

 あの時の気持ちを思い出す。でも、あの時ほどで急かされてもいない。

 あの時の行動原理は、誰かに怒られないため、だった。それが誰かの助けになるのなら、それはとても誇らしい。

「・・・ん?」

 白い肌着やハンカチが大半を示す中、いかにも汚れていそうな真っ黒な布が目に付く。

 ルクはそれにターゲットに定め、桶の中でこすり合わせる。だが、いくら揉んでも汚れが落ちて白くなる気配はない。

 疑問に思い、ルクは手にした布を引き上げてみる。重力に従い、水が滴り、泡が滑り落ちていく。

 ルクの手の中に残ったのは、引き上げる前と全く同じ色をした布。

 その正体は、真っ黒な女性物の下着だった。

 ルクの体温が一気に上昇した。

 そのまま桶に手を漬けても、熱くなった身体が火照りが収まることはなく。逆に水が沸騰してしまいそうなほどだ。

「な、何で」

 教会に女性はレティシスひとりしかいない。その持ち主が彼女なのは当然だろう。

 しかし、仕事を請け負ったからにはやり遂げなければいけない訳で。

 ルクは数秒の躊躇いと葛藤の中、手にした下着を桶の中に沈め、洗濯を再開させる。

 手早く、手の中に感触を残さぬよう、視線を外しながら。

 かくて、物干し竿には、いくつもの白い布中に黒い下着が連なった。


 洗濯を終えて教会内に戻ると、レティシスも掃除を終えたようで笑顔でルクを出迎えた。

 洗濯を終えた旨を告げる。

「あ、お洗濯物、ご苦労さまです。とても助かりました」

 自分の下着のこと、忘れているのだろうか。触られても気にしないくらい子供だからだろう。

「今の内にお風呂の用意もしておきましょう。それまでルクさんはお部屋でお休みになられてください」

 それも手伝おうと思ったけど、身体が鉛のように、重い。

 ここが子供の身体の限界な気がする。今は素直にその言葉に甘えさせてもらおう。

 部屋に戻り、ルクはベッドに身を投げ出すように飛び込んだ。

 脳内を侵食するように睡魔が襲ってきたのは、すぐ後のことだった。


 ほんのりと灯る光が遥か遠くに見える。

 周囲は真っ暗で夜の闇よりも深く、底のない空間のようで不安を掻き立てる。

 そんな世界でも見える粒のような明かりは、ルクがどこか遠い彼方に置いてきてしまったかのような物に思えてならない。

 自分が持っていた物は名前だけ。たった二文字の名だけが、自分が自分である証。それ以外は何もない。何ひとつ得たことはない。ルクの手に収まるものは、小さい手のひらでは掴みきれず、抱えきれないものばかりだった。

 きっとそれは、そしてこれから未来永劫、指の隙間から溢れ落ちていく砂粒のような物なのだろう。

 目指すべき光ま目の先にあるのに、足は鉄のように重い。まるで奴隷だった時代に付けられた足枷がぶらさがっているかのようだった。

 まだ、ぼくを苦しめるのか。まだ、ぼくを暗い底に閉じ込めて置くのか。

 ぼくは。

 いつになったら。

 陽の光の下を歩けるんだ。

 目の前の暗闇が弾けるように、視界が開けた。


 目を見開いた先にいたのは、心配そうな表情を浮かべたレティシスだった。

「大丈夫ですか?ルクさん」

 言葉で心配を示すレティシスが、ハンカチを手にルクの額に添えられる。随分と汗を書いているのが、布地が汗を数感覚で分かる。

 次いで柔らかなレティシスの手のひらがルクの額に当てられる。

「・・・熱は、無いようですね」

 と、安心した息を吐いた。

 断続的にルクの口から漏れる息。息が荒いのが自分でも分かる。鼓動も激しく、苦しい。

「うなされていましたよ。悪い夢でも見ていたのですね」

 レティシスがベッドの横に腰掛け、ルクの汗ばんだ身体を優しく抱き上げ、自らの膝の上に誘う。そして、あろうことか、ルクの衣服のボタンをしなやかな指先で外そうとする。

「ななな何を」

「熱は無いようですが、汗で風邪をひいてはいけません。お拭きしますね」

 だ、大丈夫ですっ、と自分でも驚くような大声と共に、襟口をレティシスの指から引き剥がした。

 きょとんとするレティシス。

 やってから、しまった、と後悔するよりも早く、レティシスは柔和な笑みを浮かべた。失礼なルクの態度にも怒ることはなかった。

「もう、貴方を苦しめる戒めは、ここにはありませんから」

 レティシスの細い指がルクの頬を撫で、髪を梳く。

「わたくしは、貴方の味方ですよ」

 また、思いが溢れそうになる。こんなにも自分のことを考えてくれ人間など、皆無だった。

 あの地獄では、誰もが自分のことで精一杯だった。他人を思いやる気持ちなど、どこにもなかった。

 そんなものは、あの場所では一切の意味を成さず、何の役にも立たない。誰のためにもならない、無駄な感情だった。

 でも、誰もそれを責められなかった。ルクにもその気持ちがなかったと言われれば、決してそうではなかったから。

 暴力の捌け口になるのをただひたすらに耐え忍び、誰かがその標的になれば、ルクは目を瞑り見ないようにしていた。

 レティシスの膝の上は、天上のように甘美で心地いい。真新しいベッドより、だ。奴隷時代が地獄なら、ここは天国。

 いや、きっとこんな生活こそが『普通』なのだ。そして、この世界に生きる大半の人間が『これ』を持っている。

「少し休んで気分が戻りましたら、お風呂にいたしましょう」

「あ、あの。さっきから思っていたんですが、その『さん』っていうの、やめてもらえませんか?」

 レティシスはルクより当然年上だろう。敬ってもらう理由はなにひとつ無い。

「わたくしがそう、お呼びしたいのです」

 柔らかい笑みに嘘偽りはない。

 ここに預けられる、という話を聞いた時、レティシスに対して呼ばれている呼び名はあながち間違いではないようで。

 誰に対しても平等で、誰に対しても優しさを翳らせること無く、誰に対しても親身になる。だからこそ街の人間も彼女を慕い、彼女を頼る。

 確かに『聖母』に何ひとつ違わぬ女性だった。


「わああああっ!?」

 ルクの叫び声が反響する。

 だとしても、これは寄り添いすぎだ。

 風呂の時間。

 まさか一緒に入るとは思わないだろう。

 風呂場、浴場は人ふたりは入れる広さはある。

 ルクが身体を洗っている最中、それは起きた。背後で風が吹く感触で気がついた。

 胸元から膝前までをタオルで身を包んだレティシスが現れたのだ。

 そのシルエットは幼いルクから見ても魅力的で、その意味が分からずとも視線を外さなければならないことは分かっていて。

 光の速さでなぜ?と言う疑問が頭の中を駆け巡るも、それを処理出来ないでいる。

「お水は貴重ですから。一緒に入れるのなら、その方が経済的ですので」

 そんな言葉を出されたら、ルクは言い返すことは出来ない。この教会の主であるレティシスの元に置いてもらっている身には、口を挟むべきことではな無いからだ。

「あ、ごめんなさい」

 恐らく屈んだであろうレティシスの肌が、ルクの背中に振れたのだ。

 ルクは身体をぎゅつと縮め、押し固め、彫像のように動きを止めていた。 レティシスの身体に振れないようにする努力はいとも簡単に瓦解した。

「これから一緒に暮らすのです。親睦を深めるスキンシップです」

 見えないけど、たぶん笑顔なのだろう。弾む声が浴場に反響している。

「お背中、流しますね」

「じ、自分でできます!」

 ぽよん。

「あっ」

「きゃっ」

 泡を纏わせたタオルが背中に振れる寸前、振り払おうとしたルクの右手が何か柔らかな物に激突し、痛みもなく、むしろ反対の感触で相殺された。

「ご、ごめんなさい!」

 ルクは思わず振り向いてしまう。

 そこには怒りに顔を染めたレティシスが。なんて事は無く、不備とはいえ女性の身体に触れてしまったことにも優しい表情を崩してはいなかった。

 そして、一瞬だけ表情を翳らせる。

「・・・こちらこそ、ごめんなさい。おひとりで入りたかったですよね」

 申し訳無さそうな表情にしてしまったことを、ルクは悔やむ。

「親しくなりたかったわたくしの気持ちは、いささか勇み足だったみたいですね。はしゃいでしまって、すみません」

 レティシスも、ルクがこの家に来るのを楽しみにしていたのだ。それが分かっただけでも、嬉しい。

「これから一緒に住む同居人さん。今日だけは、わたくしにお背中を流させていただけませんか?」

 ルクは少し考えた後、すっ、と背中をレティシスに預けた。

「お、お願いします」

 その思いに応えたい。

 それが、何もできない自分の、唯一できることだと思ったからだ。

 ルクの言葉に応えるように、布の感触が背中に触れた。優しく、泡で滑る感触がくすぐったくも、心地いい。

 これも、ルクが経験したことのないことだ。

 湯気の立ち昇る空間に、しばし幸せな時間が流れた。


 脱衣所で、ルクは濡れた髪をタオルで包まれるように拭いてもらっていた。

 ちなみにレティシスは上下を黒い下着で纏っている。・・・やっぱりシスターの物だった。それを、自分は洗っていたんだな。なるべくその姿を視界に入れないよう、薄目で着替える。

 ルクは、なんとも複雑な気持ちになったのだった。

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