2話
「わあ・・・」
小高い丘に建つ教会を見上げて、ルクはため息にも似た感嘆の声を漏らした。
そびえる城や、人が溢れる街を見たときも、ルクは驚いた。まだまだ、新たな驚きがこの世界にはある。
石造りの独房の中と、未開の山中しか世界を知らなかったルクには、どれも新鮮かつ、綺羅びやかに感じた。
青い草が絨毯のように広がる草原に、その教会はポツンと構えている。
建物自体は数十年単位の時が経過しているらしいが、手入れが行き届いているのか、それほど古さは感じさせない。それも教会の持つ神秘性から来るものだろうか。
振り返ると、緩やかな丘の上から向こうの街が見える。
そびえ建つ巨城が遠くに見え、街の中心部に建つ一本の塔。
それは街に福音をもたらすと言われる鐘を有した鐘楼だ。街を見守るシンボルの如く、突き立っている。
お付きの騎士に連れられ、ルクはしばらく世話になった城を出た。約半年お世話になった城だ。感慨深くもなる。
ただ、城に身をおいていたとは言え、実質与えられた小部屋と城内の限られた一部しか行き来をしてはいなかった。
住む場所が見つかった、と告げられた時も心は振れなかったが、こうしているとやはり緊張しているのだろうか。僅かに胸が高鳴っている。
「話は付けてある。今日からここが、とりあえずのお前さんの家だ」
セイン・ルイファート騎士長。
ルクをあの奴隷だった地獄から救い出してくれた人。
「あ、ありがとうございます」
ルクは深々と、礼。
セインが木製の扉を数回ノック。すると厚い扉の向こうに気配を感じた。
そして。
左右の分かれた扉の、右側が大きく開く。
そこから現れたのは、ひとりの若くて美しい女性だった。
深い藍色の修道服に身を包んだ、金色の髪の毛を束ねた、柔らかな雰囲気を纏っている。
それが、最初にルクが抱いた印象だ。
背丈は女性と言えど子供であるルクから見れば遥かに大きく、見上げることでしかその顔を納めることしか出来ない。
「シスター。この子が例の」
そこまで言うと、女性は柔和な笑みを浮かべる。
「はい。窺っております」
シスターは、衣服の裾を揃えてしゃがみ込み、ルクと視線を合わせる。
宝石のような、澄んだ輝きを称える双眸。間違いなく、ルクが今まで生きてきた短い時間の中で、一番綺麗な瞳だった。
「レティシス、と申します」
近づいたため、より際立つ。
今まで感じたことのない、優しい匂いと、柔らかい物腰。そして、美しさ。
城の中に飾られていた、女性をモチーフとした絵画のようだ。
名前を言っただけなのに、ルクの耳の中すら心地よいい響きで満たされる。
顔が熱くなるのが、ルクは自分でも理解が出来なかった。
ルクが自分自身の頬に手を当て、どれほど熱くなっているのかを確かめようとした時。影が、ルクの眼前を覆う。
その正体が何かを確かめる間もなく、自分の手の代わりに、柔らかい感覚がルクの顔を包んだ。
レティシスの胸に、自分の顔が覆い尽くされていると気付いた時。心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
この世のものではない柔らかさ。それは押し付けられ、自分の顔が沈み込むのと同時に、比例するようにルクの顔を押し返すように反発する。
突然抱きしめられたルクは、彼女から離れようとするも、頭の後ろに手を回されたため、逃れることが出来ないでいる。
自分の置かれている状況が理解出来ないでいると、ルクの耳元で声が聞こえた。
「・・・よく、頑張りましたね」
その瞬間、ルクの目から何かが溢れそうになる。
それは、今まで我慢して耐えてきたことに対しての、ささやかなご褒美のようで。
でも、ルクはそれを必死にこらえた。
何かが溢れそうになるのを。泣きたいのを、必死にせき止めた。
そうしたら、すぐにまた。
その安らぎが誰かに奪われてしまいそうで。
セインと分かれ、ルクはレティシスと共に、教会内へと足を踏み入れた。
まず目に付くのは、天井近く、正面に座する絢爛なステンドグラスだ。
赤、青、緑。
色取り取りのガラスが陽光を透過し、神秘的で神聖な光を教会内に取り込んでいる。両端のガラス窓からも光が差し込み、荘厳さを演出している。
等間隔に並ぶ、臙脂色の長椅子。
最奥には祭壇。その上には石造りの像が鎮座している。それはこの教会が祀るシンボルであるらしい。
視線を横に滑らせると、木の扉がある。石像を中央として、左右にひとつづつ。
「あの階段から上に登ると、居住スペースがございます」
促され、古びた木の階段を登る。先導するレティシスのお尻が目の前で揺れていて、ルクは思わず視線を外した。
レティシスの言う通り、連れられた先には廊下があり、左右に扉が等間隔に並んでいる。
「こちらの部屋はわたくしの部屋です。何かあったら、遠慮なく尋ねて来てくださいね」
笑みを浮かべながら、レティシスは対面の部屋の扉に手を駆け、開く。
「ルクさんがいらっしゃるということで片付けておいたのですが、まだ少し埃っぽいですね」
先日まで物置でしたから、と言いながら換気のために窓を開ける。
そんなことで文句を言っていたら、バチが当たる。雨風を凌げる場所を与えられて、休める部屋を提供されてなお、これで誰が不満を言えようか。
開けた窓からは清廉な風が滑り込んでくる。緑の匂いと共に部屋の中が浄化されているような気がした。
「必要な物があればその都度揃えましょう。これでは殺風景ですからね」
部屋の中は、簡素なベッドが備え付けられているだけ。だが、ルクはこれで十分だった。むしろ満足だ。硬く冷たい石畳の上で、毛布とは名ばかりの薄いボロ切れで身を包んでいた時のことを思い出すと、雲泥の差だ。
「い、いえ。ぼくはこれで結構です」
これから置いてもらう身だ。これ以上何も望むまい。
ルクは慌てて手を振る。それでもレティシスは柔和な笑みを崩さない。
「ルクさんは、もっとワガママになられて良いと思いますよ」
そんなことを望んでいい身分ではなかった。限りある、かき集めた希望を必死に手の中から溢れ落ちないようにするので手一杯だったから。そんなことを言ってくれる人に、ルクは出会ったことがない。
「しばらくこのままで置いておきましょう」
部屋が綺麗にするのを風の力に任せ、レティシスとルクは1階に戻る。
石像を挟んで反対側の扉は炊事場に繋がっており、そこで食事も採るらしい。
レンガを積んで造られたかまど。水を貯めた、ルクの首元ほどの大きな水瓶がふたつ。
壁に掛けられたのは鉄の鍋やフライパンと言った調理器具。お玉やフライ返しなどの器具も並んでいる。
そして、横手には錠前の付いた扉があった。
「そこは食料庫に続く地下への階段です。食材が悪くなる可能性もあるので、足を踏み入れるのはご遠慮していただくとありがたいです」
鍵が掛かっているのなら、そもそも入ることは出来ないだろう。
「さ、昼食にしましょうか!」
ぱん、とレティシスは両手を合わせ朗らかな笑みを浮かべたのだった。
食卓に並ぶのは、湯気の立つ焼き立てのパン。緑の野菜、小さなトマトの乗ったサラダ。そして、皿に注がれた琥珀色のスープだ。
「質素なものですけれど」と、レティシスは申し訳無さそうに言うけれど、ルクにとってはこんなものは質素にも入らない。十分ごちそうの範疇だ。
「足りなければどんどんおかわりしてくださいね」
木のテーブルに、レティシスとルクが向かい合い、座る。
「考えて見れば、わたくしはどなたかに料理を振る舞った覚えはありませんので、お口に合うかわかりませんが」
少し、不安そうにレティシスははにかむ。
ルクが一時、身を預けられていた城でも食事は出た。
最初は攫われた同じ境遇の子供たちと一緒に食べた。身元が分かった子から国に返された。
その度に目減りしていく子供の数。
嬉しいことなのに、喜ぶべきことなのに、どこか寂しさを覚えた。羨む気持ちが無かったとは言わない。
結局、最後まで残ったのはルクだけだった。
ルクは、自分の生まれた国も、場所も、家も覚えていなかった。
気がついたら、奴隷となっていた。
生まれて間もない頃か、物心付く前に攫われたのだと言う。
だから、家が見つかるわけないのだ。
奴隷だった時は、牢屋で喋ることを許されず、おいしくもない少ない食事を人形のように、作業のように、ただただお腹の中に詰め込んでいた。
喋ることが許されないというのは、誰が決めたルールではない。いつからか、吐いた言葉が誰かの癪に触るという、理不尽にも恐れた暗黙のルールだった。喋る気力すらない、という人が大半だったと思う。
そういう意味では、普通の食事の風景を迎えた記憶がない。
食卓の向こうに誰かがいる状況を覚えていないルクにとって、こういう食事は初めてで、緊張が何より勝った。
皿の上に乗るパンを、ルクは恐る恐る手に取った。
指が沈む。それぐらい柔らかく、温かい。
城で食べたのも確かに美味しかった。牢屋で出た者とは比べるまでもない。それはルクにとって別次元の物で。
ルクの喉がごくりとなる。茶色く焼けた小麦の香りが、ルクの食欲を刺激する。
ちら、とレティシスの顔を窺うと、ニコニコと、ルクの持つパンの行方を目で追っている。
それは、咎めるものではない。誰にも横取りされて奪われるものではない。後ろめたくもない。
気恥ずかしさを覚えながら、パンをかじる。味わったことのない歯ごたえと共に、鼻を抜ける香りが鼻腔を通り過ぎる。
「・・・おいしい、です」
堰き止めていた感情が溢れた。ルクの頬を冷たい、それでいて熱い雫が流れ落ちていくのを感じていた。
自分でも理解出来ないでいる。
食べ物で、こんなにも心を揺さぶられることがなかったから。
レティシスが椅子から立ち上がり、ハンカチでルクの目元を優しく拭ってくれる。
「うふふ。ゆっくり食べてくださいね。遠慮もなさらないで」
ただ、ひたすらに温かい。
今までに感じたことのない温もり。
それは決して室内で、真新しい服を着て、温かい食事をしただけでは得られないものなのだろう。
ルクは、失った何かを取り戻すように、食べた。
また、この幸せが手の中から溢れ落ちないように。




