プロローグ
土と煙の匂いが鼻先をかすめた。
湿った空気。聞いたことのない鳥の声。頭の奥で、鈍い痛みが鳴っている。
斉藤悠真は、うつ伏せのまま目を覚ました。
額にはこびりついた泥。シャツの背中には、じっとりと冷たい感触。
地面はぬかるんでいた。身体の下から、ゆっくりと湿気が染み出してくる。
「……落ちた、か……?」
最後の記憶は、ソロキャンプ中に見た稲光だった。
山の天気は変わりやすい。気づいたときには空が暗く、ポールに手をかけた瞬間、耳をつんざく音とともに視界が白く弾けた。
ここは、あのキャンプ場ではない。
整備された登山道もなければ、道標も人工物も見当たらない。
ただ、緑。土。湿った風。そして、深すぎる静寂。
リュックはすぐそばにあった。落ち葉の下から焚き火台がのぞいている。
スマホは──圏外。画面は点くが、何の反応もない。地図も使えなければ、時間も場所もわからない。
何が起きているのか、さっぱりだ。
けれど、悠真の手は迷わず動いていた。
拾った枝をより分け、火口を組み、焚き火台を立てる。
ポケットを探り、親指を金属に引っかけて弾くと、ライターに赤い炎が揺れた。
そのときだった。
背後で、草を踏む音。
振り返るより早く、何かの気配がぴたりと止まる。
茂みの陰から現れたのは、こちらを睨む男だった。
日に焼けた肌。腰に巻いた獣の皮。手には粗削りの槍。
年の頃は十代半ば。言葉を発したが、意味はわからない。
それは日本語でも英語でもなかった。音の響き自体が異質だった。
警戒するように槍を構えるその背後に、何人かが姿を現す。
服を着ていない者もいた。全員が素足で、火を囲む悠真を囲うように立っていた。
(どこだ、ここ……?)
観光施設でも、テーマパークでもない。
それにしては本気すぎる視線と、本物すぎる武器。
観察というより、判断しようとしている目だった。
敵か、味方か。食うべきか、祓うべきか。そういう目。
悠真は言葉を選べなかった。
だが、手元にあったライターの火を、そのまま乾いた枝の束に移した。
ぱち、と音がして火が立つ。
湿った枝から煙が上がり、やがて赤い炎が風に揺れた。
空気が変わる。
誰かが小さく息を呑んだ。
槍を構えていた手が一人、また一人と下がっていく。
言葉は通じない。
けれど──火は通じた。
(……は? なんで俺、囲まれて火囲んで……)
混乱の中で、ただ一つわかることがあった。
この場所は、自分の知る“どこか”ではない。
そして今、自分は“何か”として見られている。
斉藤悠真、二十八歳。
ただキャンプに来ただけの会社員。
なのに今――
見知らぬ森の中、火を灯した男として伝説の始まりに立っていた。