一話
彼の目は一瞬で醒めた。
『いったい、いつまで逃げているつもり』
見上げる先の太陽は、あまねく厚い雲の裏から、ぼんやりとした淡い光を放つのみで、今日一日を通して気温の上昇はとても期待できそうにない。
思った通り、元は色褪せた古い瓦屋根上には、周囲の街景色と同じく数十センチは厚みがある積雪が隙間無く敷き詰まっていた。屋外に身を投じた途端、露出した肌からまるで意思を持っているかのような冷気が衣服の中に滑り込み、背筋までも緊張させる。
のみならず、ちょうど同じ瞬間に着信を報せたスマートフォンのメッセージに、一因が付随される。この慣れぬ寒さだけではなく戦慄までもが、たちどころに身体の芯を凍らせようとしたわけだ。
『昨夜はどこに行ってたの』
続くメッセージと、寝不足のせいで眩暈が起こる。
『今朝のニュース見た? 溺死遺体、他殺の可能性もあるって』
(雪で足を滑らせて河川に落ちただけと断定せず、なぜ、警察は他殺を視野に入れたのか。捜査の続報が待たれる、ってとこか)
慣れぬ土地で二日前から居候とする身の上としては文句の一つ言えないにしても、つい昨夜から急激に増え出した大量の雪の重量に耐えられず、近い将来に崩落を予告するよう軋む天井には、さんざん冷や冷やさせられて上手く寝付けなかった。
錆びが浮いて色褪せた板外壁までも霜が貼り付き、暁闇に紛れて異様に美しく輝いている。建物に前を阻まれる東向いの玄関先庭は、まだ陽光にありつけず、元は赤土に凍結と暗い影を落とす。
築年数六十年以上にも及ぶ木造建築の、見るからに古い平屋は今やまさに化石ともいえる異様な風貌で、三間取りの屋内も期待を裏切らない時代遅れの利便性だ。それでも、連綿とした木材の生命力と勇ましさがあり、何故か嫌とも思えない。傷みが顕著な屋根葺き材は仕方がないとして、精妙なつくりの懸魚や木連れ格子に、雪が降り積もる前の唐草瓦は、今どき街中で早々お目にかかれない見事な代物である。
柱に使われる丸太の心材部分は腐朽に強いとされるが、長きにわたる経年劣化で元の赤味は失われて黒ずんでいた。気になって調べたところ、木材に含まれる糖類が失われたためらしい。そんな所以から好奇心を持って調べた結果、木材化学なる専門学があることに強く興味を惹かれて文献まで購入した。
何故なら、木材とは大自然がもたらした恩恵であり、最も古くから人類と歴史的成長を歩んできた生活で欠かせぬ存在だからだ。
『心配してるのよ』『返信して』『いい加減帰ってきて』『私がいなくなっても、たかくんはなんとも思わないの』
表面上は冷静に、静まらぬスマートフォンの電源を切ってから、預かっている鍵で玄関扉をしっかり施錠する。
「おはようございます。今夜はもっと降るらしいんで、屋根の雪、かきおろしておいた方がいいですよ。小野寺さんにも伝えておいてもらえますか」
しゃがれた声がした方を見ると、柴犬を散歩中の老婆が懸念を口にする割にはご機嫌顔で足を止め、今や新築家屋に挟まるこの古屋を見上げていた。近所に住む大家で、一年前に夫を亡くして現在は独り暮らし。名は、米田という。
「小野寺は昨日の夜から、熊本に出張なんです」
「あらあら、なんのお仕事なんですかねえ、こんな日に」
「知りません」
「小野寺さんはどうでしょう、お身体の調子は悪くなそうですかね」
「知りません」
「お隣のお子さんも、二日前から熱が冷めないそうなんですよ」
「知りません」
「そうですか。それより、毎年降るには降るけど、もう古いからこれだけ積もったらもたないかもねえ。ほら三年か四年前も凄かった。ああ、お仕事行くのね、ごめんなさい。ええと」
「尾形です」
「尾形さん、行ってらっしゃい」
誰もいない家屋へ一度だけ振り返ってから、押し進める自転車と共にブロック塀の門を出る。思い返せば確かに小野寺の顔色はやけ悪かったし、終始涙目で小刻みに震えてまでいた。尋常ではない目つきで、睨まれているようでもあったが、おそらく酒のせいだろう。考えること自体を放棄して、またもや大欠伸。普段は集団登校で群れを為す小学生児童らも、今日に限っては休校なのか防寒着で丸くなるシルエットで元気に外を駆け回っていた。小さな手袋が握り締める鋭利な氷の破片を見て注意したくなったが、児童は直ぐに手放す。
(氷の凶器で殺害、証拠は溶けて消える。溺死体の女から刺し傷があったとか? いや、それなら断定するだろう。もう少しこう捻った……たとえば、事故死とも主張できる痕跡があったとか)
本来なら所有車であるSUVカーでアパートから十五分の道程ののち職場へ到着というところ、急遽の居候先からマウンテンバイクにまたがり、入り組んだ住宅地内を曲がりくねりながら走る。
見渡す限り一帯くまなく凍結する劣悪なこの道路状況では、間違いなく渋滞につかまるだろうし、昨夜の酒宴から五時間程度しか経過していないだけに、二日酔いまでいかなくとも多少の視覚的狂いの自覚がある。安全を期して、然らばと交通手段を変更したのだった。
長く伸びる階段の麓を通りすぎて、いつになく静かな線路沿いを駆け抜ける。
(女は自殺か? いや、既に警察がそうではない私情なり背景を調べているから、報道したんじゃないか。つまり、雪害に紛れて及んだ通り魔的犯行を、一般市民に対して暗に示唆している。何故なら、今晩も)
この地で稀となる突如の奇天候に、行政の道路管理局が対処に遅れているからか、線路上の雪は居座ったままで最寄り駅のホームにも利用客はひとりもいなかった。普段は緑が目に優しい長閑な風景であるのだが、今日に限り遠くにある雪山が背景となる。
更に市街地から離れた商店街を抜ければ、職場とする巨大建造物が姿を現す。建築時の設計で、見栄えだけには意気込みとこだわりが強かったらしく、一見ではショッピングモールと間違いそうなほど窈窕たる外観風体だ。
とはいえ、現在に限っては、周囲の風景に雑ざる白一色。陽が上がるにしたがって視界良好となり、そんな全貌を目にした安心からか、どっと疲労が押し寄せた。
凍結した道路を慎重に走行した為、四十分と思いのほか体力までを消費してしまい、さすがに汗ばみ息切れが絶えない。眼鏡レンズも外気温との関係で曇っていく。
本通りへ抜けた国道脇バス停では、意外や交通渋滞も薄かったらしく通常運行の市街バスが駐留し、中からは学生服やセーラー服の上から様々な種類のアウターを着込んだ十代の若人たちが次々に溢れ出ては、揃って白い息を吹き出しつつ同じ方向へぞろぞろ歩いていく。
(証拠隠滅しようとしたが、専門家に疑われる殺し方。となると、根拠は遺体の劣化のしかたとか?)
その途切れぬ列の中に紛れて、さりげなく自転車から降りていると、一人の女生徒と目があった。
「あ、おがたせんせー、おはよーございまーす」
「あよーうす」
次はマフラーを巻いた男子生徒から、
「尾形先生、あけましておめでとっすう」
「あいよー。今年もよろしくう」
「尾形先生、知ってますか、今朝、溺死体が川から出たって」
「知らん」
「尾形先生、知ってますか、今夜も嵐になるって」
「それは知ってる」
「尾形先生、知ってますか、嵐の夜は悪い感情が蔓延るから、あまり外に出ない方がいいって」
「まあ知ってる」
「尾形先生、知ってますか、牧田先生と中原先生の噂」
「知らん知らん」
そんなとりとめのない、至って感情も込めないやり取りを繰り返す。
中ノ宮中等学校の教職員として就任以来、早くも六年が経過。雪に飾られた煉瓦調の校門の間を抜けて、職員用駐輪場へ進む途中もひっきりなしに登校生徒から挨拶を受ける、尾形隆之、二十八歳。二学年三組のクラス担任である。
見上げると敷地内に植樹された椿の垣根や、オリーブ、スギなど数々の枝には、路上と同じく昨夜の積雪が溶けずに残っていた。頭を垂らして雪の重みに耐える木の枝が、腰痛気味の状態を皮肉っているようで、それがなんとも職務全うせねばという意気込みを削ぐ。
(木の枝に、氷柱を結んでおいて、弓なりにしならせ、反作用で標的に勢いよく飛ばす、直撃した女は河川に落下。いや、殺意があるにしては確実性に欠けるな。威力も頼りない。それより、殺人ならまず動機。元恋人からの私怨とか)
そんな物騒な想念に怯えながら、雪に埋もれた中央の花壇を避けて職員専用入り口へ進む道半ば「尾形先生!」と、ひときわ大きな声を響かせる一人の女生徒が走り寄ろうとしていた。
隆之が担任するクラスの生徒ではない。一学年、二学年の化学科目と三学年も含めた物理科目は教科担当であるので、もちろん見たことがあるにしても、女生徒だけで三百名以上が在籍しているとなると即座に個人名を特定できない。
女生徒は鮮やかなブラウンカラーのダウンコートを着用していて、センター分けにした長い黒髪を揺らす。子犬を彷彿させる愛嬌のある顔立ちで、澄ました正統派美人よりこういう汎用性を有する人柄がよほど同世代の男女から支持されるんだろうなあ、などとかいつまんだ特徴から隆之は大人ながらに邪推してしまった。
早朝の稀に厳しい冷気に当てられてか、両頬は塗ったかのように朱色に染まっていて、それでも彼女は快活な笑顔と共に大きく広げた口から体内の蒸気を吐き出す。
「わたし、鈴木です! 三年です!」
隆之は怪訝に思いながらも笑って返す。
「俺、尾形です。教師です。それで、なんか用?」
「ええっ?」
彼女は大層おどろいていた。まるで、話しかけた所要を知って当然かの如く。としたところで、のっけからそうしておけば良かったとばかりに、満面の笑みで学生鞄からピンク色のスマートフォンを取り出して操作ののち、隆之へとディスプレイを向けた。
「ええっ?」今度は隆之が面食らった。「なんで、そんな画像持ってんだ、鈴木とやら。いや待て待て」
「おねえちゃんですよ。これ」
「どれがだよ」
彼女のスマートフォンには、いかにも雪辱とさせる昨夜の出来事が写真に映し出されていたのだ。一月三日月曜日、二十三時五十八分の撮影記録。
まだ八時間も経過していないのだから、もちろん鮮やかにまで体験映像が甦る。車道沿いに停車する後部座席が開いたタクシーを背景にして、苦痛に顔を歪ませる隆之が白く染まった冷たいアスファルト路上に背を着けて倒れ、その上から酩酊三人アラサー娘がなおも重なり伏せてなんとピースサインで自撮りという風変わりな光景だった。だが、一見は隆之と被さる女性三人の顔が縦に並ぶだけで、まるではべらせているようにしか見えない。
はてな鈴木なんて名字の女があの場にいただろうか、と隆之の思案する素振りを見透かしてか、鈴木の眼には主導権を握ったかの如く光が輝き増す。
「お母さん側の従姉妹なんで、名字は違いますよ。どれがおねえちゃんかわかりません? わたしが小さい頃からいっぱい遊んでくれた優しいおねえちゃんで、今でも恋愛相談に乗ってくれるんですよ」
(あの中の三人、どの女であろうと決して相談に乗れる立場でもあるまい。片腹痛いわ)
と、隆之はうんざりする。
「わたし、昔からおねえちゃんと良く似て、美人だって言われるんですけど」
「身内同士の馴れ合い評価なんぞ知るか」隆之は、愀然と吐き捨てる。「この中のどいつが、この失態を送ってきた。今すぐ消せ」
しかし、彼女は口元を弛緩させて笑うのみ。
「それより、先生の本性ってこんな感じなんですねえ。いやあ、しかもモテモテ? ほら、女子にあのひと絶対にヤバいとか、生徒を狙ってるとか、あの変な噂を広められてるからなんか可哀想だと思って。白阪先生も噂を信じてるのか、胡散臭くて近寄り難いとか言ってましたよ」
「胡散臭いってなんだ。ふざけるな。はっきりさせてんだよ、そのことは」
「しかし、すごいっすねえ、こんな美人三人組。ほっぺにチューまでされて、これ昨夜は合コンだったんでしょ。で、このあとどうなったんですう?」
「この三人でシェアハウスに住んでるとか言うから、送り届けただけだよ」
「それで、このあと皆でむちゃくちゃお楽しみ? イヤだあ! たっだれってるう!」
と、ピンクの手袋でゆるむ口元に隠して身を捩っている彼女も、もちろん高校受験間近で、精神的余裕は無いはず、にも関わらずのさんざっぱらお気楽風体に、一方の隆之は歯噛みである。
「ったく、一時間分のタクシー賃金を全部俺がもった上に、このとき腰を痛めたんだぞ。っしょーもない」
「あー、それでさっきからしかめっ面なわけですか、納得! じゃあ、さっそくお姉ちゃんにも報告しておきますね? 尾形先生のこと超優しいし、いい人だねって言ってましたよ」
「二度と会う気もないし、情けないからやめてくれ」
消しとけ、と重ねて指示されたにも関わらず、鈴木は更にとスマートフォンの画面を突き出して迫った。
「それで、どれがおねえちゃんかわかります? 当たったらこの場で消してあげますよ。どうですう? 挑戦しますう?」
苛立ちが最高潮に達したがその時、彼女の挑発的な悪たれ笑みに、隆之の挑戦心が誘発された。