天使[A]-(2)
神田愛子は、その言葉を聞いて、再び一瞬「ぽかん」という顔をした。
――が、次には「ああ…」と溜息のような声を出した。
頭の中で、色々な記憶が交錯している。
「……何にせよ、『神田大作の墓』は無いよ。『神田家代々之墓』はあってもね。――だから、神田愛子の墓も建たない予定だ」
「――そうですか」
「そっちで良けりゃ案内するけども、……別に、墓に手を合わせに来たのじゃないんでしょう」
「……」
「全く、年寄りを驚かすものじゃないですよ。天使ってのはこれだから……」
「あなたに云われたくありません」
天使と名乗った若い女性が苦笑を浮かべてそんなことを云った。
神田愛子は、若い女性と同じように口元を苦笑の形にゆがめ、
「座らせておくれでないか? いつも、あそこで一休みするのが日課でね」
と杖で、幼稚園の方角を指した。
天使が頷く。
いつも、本尊に手を合わせてから座るのが日課だが、今日は墓地から直行でベンチに座った。
もしかすると――自分の息子ほどの年の――住職が、「神田のおばあちゃんは今日は遅いな」とでも考えているかもしれない。
幼稚園の方から、孫――いや、ひ孫ほどの年の子供たちの甲高い声が聞こえる。
「改めて名乗ります」
隣に座った女性――天使がそんなことを云った。
「私は、Aです。神田愛子さん」
「……あたしもAだよ」
神田愛子が、しわくちゃの顔に笑みを浮かべて天使に云った。
「……『A』を名乗るあんたが来ているのだから、死神――『D』も一緒?」
「ええ、あそこに」
そう云って、天使Aは寺の屋根を指さした。
愛子がそちらに目を向けると、反り返った屋根の中腹辺りで、黒衣に大きな鎌を肩にかついだ男が、……にこにこ笑って手を振っている。
思わず愛子は吹き出した。
「また縁起でもない。……誰かに見られたらどうするの、あんなの」
「貴女はご存知でしょ? 見られる、見える以前に、こうしてお話している間、貴女がここに座っていることすら、私が判断しない限りは誰にも認識されません」
「ああ……そうだった」
愛子がこくこく頷く。記憶を確認するように。
「……あたしは、ここで今から死ぬんかい」
愛子は独り言を呟くように云った。
天使Aが首を振る。
「いえ……。貴女は、『予定』の方です」
この一週間以内に死ぬ「かもしれない」人の中の一人。
「そうかい」
「……この世界に生まれてから今まで、人生は充実してらっしゃいましたか?」
「充実ねぇ……」
神田愛子は天使の言葉をぼんやりと繰り返しながら、幼稚園の方に視線を向けた。
杖を支えた手の上に顎をのせて、愛子は幼稚園の園庭で走り回っている子供を見ていた。
天使は、そんな老婦人の横顔を見ている。
少しの間があって、愛子は首を振った。
それは、否定してのことではなかった。
「よく解んないよ。――生きていた、それに必死だった、それだけだね」
「――そうですか」
天使が、ただの相槌以外の何ものでもない声色で云い、首を縦に動かす。
「では、後悔はありますか?」
神田愛子が、同じく首を横に振る。
それは、否定だった。
「いいえ」
「――。そうですか」
同じ言葉だったけども、天使は少し間を空けてから云った。ほんの少しだけ感慨深そうな溜息が混じっている声に聞こえた。
「――あなたのDは……、大作さんは、いつお亡くなりになりました?」
「あたしに聞くんじゃないよ、もうそっちに行ってるじゃないか」
愛子が苦笑混じりに云う。すると、天使は肩を竦めた。
「死神なら覚えてるかもしれませんけど、ご存知でしょう、天使が人間個々に大した興味など持っていないこと」
「……ああ…」
「――まして、私は『A』ですもの」
他に「A」が居る、他の「D」――正確には「Dだった者」なんて、――役職的にも意識的にも、眼中には入らない。
「そうだったね」
と愛子が頷いて、一度息を吐いてから続けた。
「――もう、五十年になるかねぇ…」
「そんなに?」
少し、天使が驚く。
「子供三人作ってから、あの戦争に志願して行っちゃったよ、バカたれが。記憶なんか残ってないだろうに、これだから死神ってのは――それも、Dってのは」
「……」
愛子が、独り言の口調で、苦笑混じりに悪態をつく。天使は黙って聞いている。
「帰ってはきたんだが、何か、弾が腹の危ないところに残ってたとかで、上の子が二十歳になるちょっと前に死んじゃった。バカだから、その弾だってきっと一緒の隊の子を庇いでもしたんだろう」
「……」
多分、これだから「D」ってのは、とまた云いたかっただろう。胸の内ではもう云っていたかもしれない。
「生まれるときに、どう死ぬって云ってたんだろうね、大作は」
愛子がまた独り言を呟いて、ふと、寺の屋根に目を向けた。
つられて天使もそちらを見ると、黒衣の者が、ぶるぶると大げさに首を振って口の前で指を二本使い、×マークを作っていた。
それは、「知ってても云わないよ」という意味であることは、愛子にも、解っている。……天使に「云うな」という意味でもないことも。――天使Aは、そんなこと「知らない」か「覚えていない」筈だから、「云うな」とは云わない。
「まあ、でも大体想像はつくよ。『A』、あんたも大体想像つきませんか」
「――多分、『誰かの代わりに死ぬ』『誰かのために死ぬ』とかそんなことを云っていたのかもしれませんね」
「そうだろうね」
連れ合いはあたしなんだから、あたしのために死にゃいいのに。そうは考えないんだ、死神――Dってのは。
やれやれ、というふうに愛子が溜息をつく。
「あなたはどうして、この世に生まれる気になったのですか?」
――天使Aは、聞いておきたかったことを訊いた。
また前を見ていた愛子が、ちらりと天使を横目に見る。
天使の表情を見て、愛子は軽く目を細めた。
――天使Aは、そもそもそれが理解できない、と云っているような顔をしている。
愛子が苦笑する。
「死神が、人に生まれることを望むのは、そんなに珍しいことじゃないけれど――、なぜ、あなたが?」
「あんたもAなら解るだろう」
「解らないから訊いたんですが…」
解らないはずはない、何を馬鹿なことを訊いてくるのか、という口調で愛子から云われたので、今度は、Aは少し戸惑ったような顔と声になった。
そんなAの顔と声に、愛子がまた苦笑を浮かべ、軽く首を振った。
「……あんたは、幸せな『A』だね」
「――」
意味が分からない。Aの方が、やはり戸惑った顔をして首を傾げる。
じわじわと……、Aの胸中に「この方は、やはり『先輩』なのだ」という気分が、漠然とだが湧いてきている。
愛子が、微かに、何かを企んでいるような笑みを見せてAに云う。
「あんたのDが、人に生まれることを望んだら、どうする? それを、考えたことはあるかい」
「……」
Aは少しの間、何か考える顔をして、首を振り、
「Dはそんなこと望みません」
きっぱりとした口調でそう云った。
すると愛子が、目をぱちくりとさせて、
「あんたは幸せなAだね」
と繰り返した。
Aは、「じゃあ、あなたは幸せなAではなかったということですか」と疑問に思ったが、尋ねるのは止めた。
愛子がちらりと寺の屋根を見ると、死神が膝に肘をついて頬杖をつき、苦笑していた。
「……何でそんなことを、あんたはきっぱり云えるのさ?」
Dから目を逸らして、愛子が相変わらず、どことなく意地悪く見える表情でAに問う。
Aが、肩を竦める。
「だって、Dがそんなこと考えるなんて、全く想像が出来ませんもの」
「答えになってないよ……」
大げさに愛子が溜息をつく。頭の悪いことを云うねえ、とでも云いたそうに。
Aは、若干気を悪くしたような顔をしたが、――何故、愛子がこんなことを云うのかすらも分からなくて、次にはやはり戸惑いの表情を浮かべた。
「――まあ、いいさ…。あんたが思うように、本当にあの子がそんなこと考えないDなのだったら、やっぱりあんたは、幸せなAだってことだよ、ただそれだけ」
ちらりと寺の屋根を見て、愛子はAにそう云った。寺の屋根では、「あの子って」とDが一人でずっこけている…。
「……じゃあ、それはそれでいいですけど、私の問いには答えてくださいませんの?」
Aが、少々拗ねた口調で云うと、愛子が「はい?」と首を傾げた。
「ですから、――『あんたなら解るだろう』と仰ったきりです。私には解らなかったんですから…」
「――ああ、あんたはあんたで、筋金入りのAだねぇ」
ふふ、と愛子が笑いながらそんなことを云った。
「鈍感だ」
「……心外です」
「天使ならそこは、『人間に鈍感と云われて結構』と澄ましてなきゃいけないよ。まだ修行は足りないね」
悪びれず、愛子が笑う。
結局、はぐらかされているのだろうか、はぐらかしたいのだろうか、とAは思った。
愛子がひとつ、ふう、と息を吐いて、「単純に考えて、やっぱりあんたに解らないはずは無いよ」と云った。
「AはDについてくもんでしょうよ」
「……それだけ?」
「他に、何かあるの?」
「――」
云われてみればそうだけど。
たったそれだけ?
Aが「拍子抜け」という気分になって口を噤んでしまっている間に、愛子が続きを云った。
「だから、あんたは幸せなAだって云うんだよ」
「……は?」
「Aが、本当ならそこまではついて行きたくないとこに、D自身が行こうとしないってんならね。それがAに伝わってる、解ってる程なら尚更だ……。Aの方について行くつもりがちゃんとあるDってことでしょうよ。いいコンビなんだろうね、あんた達は」
独り言のように愛子が云う。
Aはその言葉を反芻し……軽く、眉を寄せた。
「あなたは、後悔は無いと仰っていたのに」
「あたしに後悔は無いよ」
「あなたのDは、そんなに我が儘だったと?」
「それを我が儘だとあんたは思うくらいに、あんたのDは我が儘じゃあ無いんだろうねえ…」
「……」
「死神は天使に我が儘なもんだと決まってるよ。天使は基本、人間が死神ほどには好きじゃなくて、だから人間を愛してると云う死神が理解出来ないもの。そんな天使が理解できなくて、過激なケンカ売ってくる死神も居るし、天使からしたら相当に我が儘に見えるほど人間の方を贔屓する。そうでしょ? だが、Dと名のつく死神とAと名のつく天使だけは、『パートナー』として在る……違う?」
「それだけで……、人間に生まれることが出来たのですか、あなたは」
必死に、生きたと?
「Aってのは、そういうものです」
先輩が、そんなことをきっぱりと云う。
理解できない。
理解できないAに、愛子はまた、「だからあんたは幸せなAなんだってば」と苦笑混じりに云った。
「じゃあ……あなたは、幸せじゃないの?」
Aが、さっき飲み込んだ問いを口にすると、愛子は微笑を浮かべた。
「あんたは、自分で自分を幸せだとか思わない程幸せだから、そんなことをあたしに訊くんだよ」
「……」
「あたしはあんたを、いい『D』とパートナーになれたね、って意味で、幸せだって言ってやっただけさ」
「じゃあ……」
「あんたに云われなくてもいいよ。あたしのDも、いいDだったよ」
Aに先回りして愛子が云う。Aは口を噤んだ。
「あたしの『連れ合い』は、『あれ』だけさ…」
一度目を閉じて愛子は溜息混じりにそう云い、次に目を開けながら、だからだよ、と続けた。
それだけ?とAはまた口にしかけたが、愛子がとても遠くを見ているような目をしていたので、声にするのを止めた。
「あんたは、あんたの連れ合いを大事にしておやりなさい」
遠くを見ている顔のままで、愛子がそう呟く。
Aは愛子に小さな声で「解りました」と云ったが、屋根の上で死神が頷いたのには、Aの方が気付いておらず、愛子が小さく笑い、聞こえないほど小さな声で「当分、代替わりが無いね」と云った。




