天使[A]-(1)
天国に住む者に、こういう「場所」は必要なんだろうか。
それは「部屋」だ。
机があって椅子があって、本棚(多分)があって、ついでに、花瓶を置いているエンドテーブルなどもあって。
その部屋を人間が見たら、書斎とでも名付けているかもしれない。
だけど、こういう場所が「天国」にあるのは何故だろう。
その上、その部屋の住人は、「黒い」。
黒い衣に黒い髪。
机の後ろの「壁」には、大層大きな鎌が無造作に立てかけてある。
こんこん。
「ドア」が音を立てる。
「ドウゾ」
机に肘をついて頬杖をつき、あくびをしかけていた黒い者は、それを慌ててかみ殺しながらそう云った。
ドアが開いて入ってきた者は「白い」。
白い者は黒い者の顔を見ると、「さぞや退屈なさっているのでしょう」と云った。…あくびをかみ殺したのを察したらしい。
黒い者は死神で、白い者は天使である。
死神でもあくびをしたら、あるいはかみ殺しても、涙が滲むらしい。
しずしずと机に近寄る天使は、その言葉遣いと云い歩き方と云い、どうも女性のようだった。ただし、天使に性別があるのかどうかは判らないが。
死神は、天使の皮肉に少しばかり眉を寄せてむっつりという表情を作った。
天使が手にしていた「紙」を机に置かれる前に、ずいっと手を差し出す。
その乱暴な仕草と姿形からして、死神は男性のようだった。実際、この死神は男性だった。
天使は軽く苦笑を浮かべて「紙」を渡した。
死神の中で一番「偉い」Dが、三枚の紙を眺める。
天使の中で一番「偉い」Aは、Dが紙を眺めるのを眺めていた。
死神Dがふと、天使の顔を見上げる。
「おまえさんは、全部目を通したかい?」
「……あなたほど真剣に読みはしません」
天使はね、と天使Aが続けた。
死神Dは、ひとつ溜息をつき、
「他の天使はそれでもいいが、君はせめてちゃんと目を通せよ」
と云った。
どういう意味です?と天使が首を傾げた。
「ごらんよ」
Dが紙の一枚、そのうち真ん中辺りを指さす。天使は、素直にその指の先を見た。
……書かれている「文字」を見て、天使が目を細めた後、少し戸惑った顔をして死神の顔を見た。
「……それで?」
と天使が云う。
「あなたは、この方のもとへ行くの?」
AがDに問うと、「さあ…」とDは首を傾げた。
「俺は特に、この人のところに行こうとは思ってないよ、その必要を感じないし」
「じゃあ、それでいいんじゃないの?」
「君は行きたくないんかね」
「……」
天使が迷うように首を振った。
「どうしてあなたがそんなことをお聞きになるの? ……私は、あなたのパートナーとしてあなたが行くところへ一緒について行くだけでしょう? ついて行かなくてもいいなら敢えてついても行かないし」
「君が俺のパートナーだとしたら、俺は君のパートナーじゃないんかい」
Dが不思議そうな顔でそう云うと、Aはやはり戸惑いの表情で口元に手をあてた。
「天使Aよ、君は行きたくないか?」
「……」
相変わらず困った顔の天使Aに、死神Dがひとつ溜息をついて苦笑を浮かべた。
「俺が降りるときに君も降りるなら、君が降りるときは俺も降りる。俺がついてこなくていいと云ったら敢えてついてこなくていいが、君がついてこなくていいと云うなら俺もついてかない。……俺に選択権があるなら、君にだってあるよ」
「――」
「天使は俺たちほど生きてる人間が好きではないし興味も無いのは解っているが、『人間にも色々居るよ』?」
苦笑を浮かべたままDが云うと、Aは、こっくりと大きく頷いて、
「お会いしておきたいわ、この人に」
と真面目な表情と声で云った。
それで死神Dが、「じゃあ、行こう」と苦笑を微笑に変えて頷き返す。
「では、どうするの? まさにそのときに行く? それとも、今のうち?」
「今から行っておきましょう」
「わかった。――で、俺は君について行った方がいいのか、それともついて行くことはなく『行ってらっしゃい』と云うだけでいい?」
「私は、行きましょうって云った筈ですが。行ってきますと云った覚えはありません」
「では行こう」
冷静な声で拗ねたようなことを天使が云い、死神が軽く笑って頷く。
その老婦人は、毎日、家の近所にある墓地まで散歩するのが日課だった。墓地は寺に隣接している。
先立たれてしまった、夫が眠る墓に手を合わせ、寺の本尊に手を合わせてから、寺の境内――と云って良いだろう――に建っている付属の幼稚園、その建物が見える位置のベンチで一休みして、帰り道にあるスーパーで夕飯の買い物をして帰宅する。
いつも通りそうするつもりで、墓地の敷地を出て寺の方に歩いていると、
「ちょっとすみません」
と、前から歩いてきた女性に声を掛けられた。
真っ白いワンピースを着ている、若い――と云っても老婦人から見れば、腰が伸びている女性は大抵自分より若いのだが――女性だ。
杖をついていた老婦人は、俯き加減になっていた顔を上げて、女性の顔を改めて眺めた。
男から見ても女から見ても美人と称されそうな顔だ。とても肌の色が白い。……最近の若者は、昔の日本人と比べて彫りが深くなっているようだが、この女性もそういう顔立ちである日本人、なのだろうか。日本人離れしているような気がするが、日本人ではないと断言するのも自信がない――だからいよいよ年もわからない。……でも、それにしたって自分よりは絶対に若いだろう、と老婦人は思った。
「何か?」
杖を突っ張って、曲がっていた腰を少し伸ばし、女性と目を合わせようとした。……向こうが背中を曲げて目線の高さを合わせようとしているのが、恐縮でもあったし癪でもあった。
「お墓を探しているのです」
「……どなたの?」
聞き返しはしたが、自分に縁のある――夫が眠っている――墓の両隣と真向かいくらいしかお墓に刻まれた名前を覚えていないから、役に立てるとも思わない。――もし、両隣と真向かい以外の名前を云われたら、「ご住職にお訊きになったほうが良い」と云う心の準備もしていた。
「神田愛子さんという方の」
若い女性はそう云った。
――老婦人は、一瞬ぽかんという顔をした後で、ぎゅっと眉間に皺を寄せ、
「お墓は知りませんね」
と素っ気なく云い、杖をついて女性の脇を通り過ぎようとした。
「縁起でもない――本当にここの仏様にそういうお名前の人が居るんだったら済みませんがね――……あたしは存じませんね」
「……」
若い女性の脇を通り抜け、老婦人は一度立ち止まって振り返り、
「あたしも神田愛子ってんですよ。――ご住職にお尋ねになった方がいいですよ」
と云った。
――すると……、若い女性も振り返り、特に恐縮する様子もなく微笑さえ浮かべて、
「では、神田大作さんのお墓はご存知でないですか?」
などと云った。
老婦人は――神田愛子は、目を細めた。
それは、
「そりゃあ、あたしの連れ合いだ」
「――」
この女は、一体、何なんだろう?
いい加減長い時間を生きてきたので大抵のことには驚かなくなったと思っていたが、これは、少し気味が悪くなった。
「あんた、誰よ? 何なんだ」
「今のあなたの言葉では、『お迎え』と云った方が伝わりやすいでしょうか」
「……」
「私は天使です」




