ここでここで
形のいい唇からこぼれたのは、真っ白なため息だった。
自分のうっかりを嘆きつつ、風花は腰を曲げて手を伸ばす。
右手で自販機の取り出し口を開くと、落ちてから数秒待たされたスチール缶を左手で救い出す。
「つめた……」
不満を口にしながら体を起こすと、長い黒髪がサラリと揺れる。
真っ白で綺麗な肌を、安っぽい光が青白く染めた。
その光を黙らせるかのように、風花は渋い顔で追加の小銭を押し込む。
そして少し考えた後、
「……仕方ないかぁ」
間違えた自分が悪い。
そう言い聞かせながら、風花は今度こそ『あったか~い』のボタンを押した。
****************
右手に天使、左手に悪魔。
見た目にはまったく同じの二つの缶を持ったまま、風花は来た道を引き返していく。
制服のスカートを揺らして歩くことしばし。
その先で待っているのは、ベンチに腰掛けるスーツ姿の青年だ。
きっちり整えられた黒髪とは裏腹に、スマホを見て子どものようにクスクスと笑っている。
今度は風花の中の天使と悪魔が議論を始めるが、そこはいったん無視。
「光さん、お待たせ」
そう声をかけると彼は顔を上げ、もともと細い目をさらに細めて微笑んだ。
「おかえり、風花ちゃん」
自分に向けられる優しい表情と声。簡単な言葉。
それだけで、天使があっさり勝訴した。
「はい、どうぞ。改めて、入社おめでとう」
そう言いながら隣に腰掛け、風花は右手を差し出す。
より正確に言うと、右手に持った温かい缶コーヒーを。
「うん、ありがとう」
光はそれを受け取ると、手のひらで転がしてしばし暖を取る。
「まぁ、まだ内定式だから油断できないけどね」
「え、そこから覆ることってないでしょ?」
「ほら、大学卒業できないとさ」
「それ、笑って言ってて大丈夫なの……」
呆れる風花にアハハと笑い声を返し、光はようやくプルタブをカシュッと起こした。
思い出したように風花もそれにならい、同時にズズッと一口。
光は笑顔、風花は文字どおりの苦い顔。
「あれ、風花ちゃんもコーヒー? 珍しいね」
言われ、風花は苦みを吐き出す。
「……間違えて、冷たいの買っちゃって」
そのあまりにも渋い表情がツボに入ったらしく、光はプッと吹き出すとそのままケラケラ笑いはじめた。
「ちょっと、笑いすぎじゃない?」
「あはは、ごめんごめん」
苦言を呈すと、数秒かけて素直に笑いを収めにかかる光。
そうして今度は、くしゃっと眩しげに、優しく微笑んだ。
「そんな顔で飲むくらいなら、自分のぶん買いなおせばよかったのに。馬鹿だねぇ」
「そんなのもったいないでしょ。今はフードロスが叫ばれる時代だし……」
「あ、その意地の張り方、すごく風花ちゃんっぽい」
「……もう、オニの首を取ったみたいに」
そのずるい表情を見ながら、風花はため息を吐き出した。
馬鹿だね、と普段よく言われるのは光のほうである。
優しく真面目ではあるが抜けている部分があり、主に双方の母親からその言葉を賜っている。
風花と光は幼馴染、小さい頃から家族ぐるみの付き合いだ。
ちなみに風花のほうは、今も昔もしっかり者。
お互い一人っ子で、親が不在のときは二人で過ごすことも多かったが、六つも年下の風花のほうが光のことを頼まれている節があった。
だから、こうして風花がやらかして、光に笑われるのは珍しい。
「ちょっと考え事してただけで……もういいでしょ」
風花としてはこの話題を掘り下げられたくなかった。
特に、考え事の内容については。
だから、自分の口を塞ぐように缶コーヒーを一気に呷る。
冷たさと苦さにできるだけ耐えた後、勢いよくベンチに缶を置いた。
まだ半分以上残っている缶コーヒーは、くゆんちゃぽんと鳴き声を上げる。
さすが悪魔、主張が強い。
「いや、よくないよ」
と、光のほうからも珍しく強い主張が来た。
何が、と問う言葉は直前で止まった。
「ほら、こんなに冷たくなって……ほっとくと霜焼けになっちゃうよ」
言いながら、光は両手で風花の左手を握っていた。
思っていたよりずっと大きくて、温かい手。
その感触を認識した瞬間、風花の心臓はきゅうっと縮む。
早く離さないと。でも。離してくれない――離したくない。
そんな葛藤に一瞬、時が止まったような気がした。
でも、現実にそんなことは起きない。
「いやっ……!」
縮まった心臓は反動で暴れだし、思わず動いた手はあっさりと解放される。
「もうっ……子どもじゃないんだから……」
カイロ持ってるし、なんて言葉はまともに発されていたのだろうか。
自分の心臓がうるさい。体中が溶けてしまうんじゃないかと錯覚するほどに熱い。
こんな温度差、それこそ霜焼けになってしまう。
そう、だからこれは霜焼けだ。左の手のひらが、真っ赤に染まっているのは。
「……ごめん。嫌だったよね」
シュンとした声。
それを聞いて、今度は一気に背中が冷えていく。
「もう子どもじゃない、か。そうだよね」
「ちが、そうじゃ……嫌じゃない!」
寂しそうな笑顔と言葉、それを否定したくて思わず大きな声が出た。
光は驚いた顔で風花を見つめる。
「その……いきなりで、ちょっとびっくりしただけ。……嫌じゃ、ないよ。だって私……」
切れ切れの言葉。
それを聞き漏らさないよう、光は風花をじっと見つめている。
そんな光を、風花も見つめる。
――だって、私。
「……私たち、兄妹みたいなものでしょ?」
吐き出した言葉は、コーヒーよりも冷たく、苦かった。
****************
過ごした月日の長さは偉大だ。
そんなことがあっても、少し喋っているだけで、染みついた『いつもどおり』はすぐに取り戻せる。
本当に偉大で、残酷だ。
「ねぇ、さっきスマホ見て笑ってたでしょ? 何見てたの?」
そうして『いつもどおり』を装えば、彼もまた『いつもどおり』を返す。
「ああ、同期が二次会ではしゃいでてね。ほらこれ、写真」
差し出されたスマホを、少し体を寄せて覗き込む。
見れば、数人の男女がとても楽しそうに笑っている。
その中心の女性が持っているのは、どうやら紙にペンで描いた……
「何これ……オニ?」
「ネコ、らしいよ」
なるほど、これは笑ってしまう。
「楽しそうなところでよかったね。二次会、行かないでよかったの?」
「行っても今頃寝てたと思うよ。お酒そんなに得意じゃないから」
返事を聞いて、風花は複雑に思ってしまう。
別に、弱くても飲まなければいいだけだ。
それがわからない、できない光ではない。
だからきっと、それは建前で。
「だから、こうしていつもの公園で風花ちゃんに祝ってもらえるほうが、俺は嬉しいかな」
それはきっと、本音なのだろう。
嘘偽りない本音で、どうしようもない本音だ。
とても嬉しくて、とても悲しい。
「……そっか」
ほんの少しだけ、体を寄せてみる。
でも、触れることはしない。
このまま、もたれかかろうと思えば。そうすることはできるんだろう。
でもそれはきっと、『お兄ちゃんに甘える妹』でしかない。
どれだけ風花がしっかりしていようと、どれだけ光が抜けていようと。
今スーツを着ているのは光で、制服を着ているのが風花なのだ。
だから、甘えたままでは届かない。
きゅっと、足に力が入る。
丸まったつま先は、窮屈なローファーの中で痛みを主張した。
「四月から社会人か……大丈夫かな、俺」
と、そんなことを光が呟いた。
お兄ちゃんも、たまには妹に甘えるものだろう。
「大丈夫じゃない? 通うのも実家からなんでしょ?」
「まぁ、それはそうだけど」
衣食住さえ安定していれば、大概のことは何とかなる。
何かの本で読んだ言葉を、風花は受け売ってみる。
「ただ、ずっとそうとは限らないからね。本社勤務になれば東京だし、出世すれば海外勤務もありえるって言ってたよ」
「えっ!?」
唐突な話に、風花はまたも大きな声を出してしまう。
光はと言うと、その声に「わっ、びっくりした」と逆に驚いている。
「そんな、海外なんていきなり……」
風花は激しく動揺していた。
だって、光はずっとここにいて。
今までも、これからもずっとそうだって、どこかで勝手に思い込んでいた。
――いや、いったん冷静になろう。
こんなに動揺してるのがバレたらまずい。
普段の私はしっかり者で、こんなときでも落ち着いて考えることができるはず。
風花はそう考え、もし光が海外に行ってしまったら、と冷静に考えてみることにした。
まずは何にせよ場所だ。距離次第では今の時代どうとでもなるし。
「えっと……海外って具体的にどこ……って、いう、か……」
と、そこで気がついた。
そもそもの話に。
そして、光がクスクスと笑っていることに。
「……光さん、そういえば英語の成績壊滅的じゃなかった? 特にリスニング」
引き攣った声でそう尋ねると、光は今度こそ大声を上げて笑い始めた。
「そうそう、だから海外なんてムリムリ。そもそも本社行きですら優秀でやる気溢れる人からだし、当分の間は関係ないと思うよ」
そう、ちょっと考えればすぐにわかる話だ。
全然冷静になれてないじゃん、と風花は心の中で膝から崩れ落ちる。
「いやー、びっくりしたよ。急に大声出したり落ち込んだり冷静になったりするから、温度差大丈夫?」
「もう、誰のせいだと思って……」
現在は恥ずかしさで体温急上昇中だ。
たぶんこのまま行くと顔が真っ赤になる。
それを見られたくなくて、風花は立ち上がった。
そのままタタッと、髪を靡かせながら数歩前に出る。
これで光からは、風花の背中しか見えない。
大きく一つ、深呼吸をする。
落ち着いてきた頭に、ようやくまともな思考が帰ってくる。
うん、さすがに海外はない。
でも。
思い出すのは、さっきしていた考え事だった。
****************
「四月から社会人かぁ……」
百円玉を指で弄びながら、風花は呟いた。
いつもの公園、いつもの自販機。
風花と光は、いつもここに来ていた。
風花の入学式。
光の卒業式。
風花が部活の試合で勝ったとき。
光が吹奏楽コンクールで、惜しくも敗れたとき。
何てことない水曜日。
天気のいい日曜日。
嬉しいときも、悲しいときも。
特別な日も、普通の日も。
「いつものとこで待ってる」
この一言だけで、二人はここで。
「だから、大丈夫だよね」
光は社会人として歩み始める。
新しい人たちとも出会う。
それでも今日こうして、ここに来てくれた。
だからきっと、これからも。
そして、いつか。
思い立って、手元の百円玉を左手の薬指に乗せてみた。
「大きすぎ……フフッ」
これじゃあ、給料百年分あっても足りない。
でも、それでも。
もし、そんな日が来るなら――
「……あ」
ピッ、と電子音が鳴ってから気がついた。
考え事をしながら運んだ指先は、『つめた~い』に吸い込まれていた。
****************
そんな思考を、妄想を振り切って。振り絞って、振り返ってみる。
きっと、今のままでは。
ずっと妄想のままなんだろう。
甘えたままでは、届かない。
「風花ちゃん?」
目と目が合う。
口を開いて、息を吸って、息を吐いて、口を閉じる。
コーヒーの苦い香りが、鼻を通り抜けた。
目を閉じた。
そのまま、黙って首を振る。
きっと、今日じゃない。
これから歩み始める彼の、邪魔にはなりたくないから。
なんていうのは、たぶん言い訳で。
もう少し、甘えていたいだけなんだと思う。
でも、きっと、いつか。
いつかちゃんと、言葉にするから。
私から、ここで。
だからもし、その日が来たなら。
あなたから、ここで。
ここで、ここで。