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自宅小咄

タツ : 最後の恋愛

作者: エッグ



 誰かに自慢できるような人生が欲しかった。誰かを助けられるような人になりたいと、ただひたすらに願って生きていた。




 ガヤガヤと騒がしい席の端で、大柄なくせに目立たないように座っている男がいた。皆が楽しそうに酒を飲む中、彼だけ無言で枝豆を齧っている。

 ふと、その男が席を立った。それから彼は上司に絡まれている若い男性と、上司の間に入り、さりげなく若い男性を逃がす。代わりに自分が上司の酌をして、へらりとした愛想笑いを浮かべた。


「林ィ、飲んでんの?」

 たびたび若手を逃がしながら場所を転々としていた男は、同年代の男性に話しかけられる。林と呼ばれて、先ほどの愛想笑いよりは幾分かマシな疲れた笑顔を見せる。

「そこそこ。お前は?」

 聞き返された林の同僚の男もぼちぼち、と答えて林の隣に腰掛けた。二人はそこに腰を落ち着けて、最近の職場の内情などを話し始める。嫌な上司の話から、有望な新人の話、その次に行き着いたのは。

「そろそろ、結婚してえよなぁ」

 という同僚の愚痴だった。林は返しが浮かばない、みたいな顔をして曖昧に笑う。

「だって、俺もう33だぜ?お前もだろ。我が子の一人や二人、抱いてみたい。」

 そうだなぁ。あくまでもぼんやりとした返しを続ける林の態度に同僚がムッとした顔になる。林が自分の将来を真剣に捉えていないと考えたのか彼は素早く林のポケットに手を突っ込んだ。

「ちょ、おい、何!?」

 慌てて取り返そうとするその手を掻い潜る。林の動きはゆったりとしていて隙が多い。同僚はロックすらかかっていないその携帯に、勝手に派手な色のアイコンのアプリを入れた。そして林に突きつける。

「お前さ、わりと自分のことに対して無気力だよな。そんなんじゃダメだべ?もう、30超えたんだから、結婚くらいしてねえと箔つかねえって。」

 林の目が一瞬迷惑そうに歪む。だけど彼はすぐにそれを隠して苦笑いを浮かべた。

「……うーん、そう言われても俺はあんまり……。」

 すると同僚はもう一度林の携帯を奪い取り、勝手に入れたアプリを開く。面倒だな、と思いつつ林が彼の横から携帯の画面を覗き込むと、何かしらプロフィールを入力する画面が表示されていて、同僚が勝手にポチポチと林のプロフィールを打ち込んでいった。

「お、おい、さすがにそんな個人情報……。」

 林は慌てて止めようとしたが、時すでに遅し。同僚はほら!と登録の済んだそれを林に押し付けた。どうやら入れられたのはマッチングアプリだったようで、画面には様々な女性のプロフィールが並んでいる。

「出会いはねえけど、俺たちは公務員だ。まあまあモテる。ここで探そうぜ、俺たちの愛をよ!」

 酔ってんのか、コイツ。酔ってんだろうな。林は深いため息をついて、水のグラスを掴んだ。


 鉄は熱いうちに打て。なんて唆されても食指は動かず、林は同僚を満足させるために一人と何かしらのやり取りをすることにした。

 でも、わりと似たり寄ったりのことを書いている人が多くて、こういうのがウケがいいのかなぁと邪推してしまう。そんな視点からこういうアプリを使うのは申し訳なくて、やっぱりやめておけばよかった。そう思ったときだった。


『私と最後の恋愛をしていただけませんか。』


 その文言しかプロフィールのコメント欄に書いていない女性がいた。林が固まっていると、同僚が隣から覗き込んでくる。

「あ?なんだそれ。怪し〜。宗教勧誘だろ、絶対。もしくはマルチ。」

 その確率は高い。正直怪しい。なのに、なんとなく無視できなくて、林はへらりと同僚に笑いかけた。

「じゃ、この人に連絡してみるわ。」

 同僚が目を見開く。げー、と言って彼は首を横に振った。

「やめとけって。ぜってーろくなもんじゃない。」

 ろくなもんじゃないくらいが切り捨てられていいだろ。林は半笑いで『こんにちは。コメントに惹かれて連絡させていただきました。』と送った。

 これが、のちに妻となる人との出会いだった。


 

 あれから一週間。林はとあるカフェで人を待っていた。相手はマッチングアプリで声をかけた女性。あの後ぽつぽつとやりとりが続き、女性側からの熱い要望で会う約束をあれよあれよと言う間に取り付けられてしまった。

 本当にマルチとかだったらどうしよう。その不安に震えつつ、あんな文言書かれてたら気になって。例え悪戯半分の所業だったとしてもネタにできるからいいか。そんな軽い気持ちで林はコーヒーを啜っていた。

 時計を確認するとそろそろ約束の10分前。日当たりのいい席で、服の特徴は伝えていたし、何よりこの体躯を違えられることはないだろう。林の身長は189cmあり、日本人では珍しい背の高さだったから。

 カランカラン。店のドアが開く。この席からは入り口が見えるので、後ろで一本に三つ編みをした小柄な体躯の女性が入ってくるのも林には見えていた。最初に金を払う形式のこの店は、注文してから席に着くまでに少し間がある。林は何の気なしにその女性をぼんやりと眺めていた。

 あまり注文し慣れていないのか、メニューに一喜一憂している表情の変化、店員に見下ろされるくらい低い身長、それに、可愛らしい顔をしている。

 可愛い女性に目が惹かれるのは男のサガ。でもそれだけではない何かを彼女に感じていた。その違和感の正体を探るようにぼんやりと眺めていると、注文の品を受け取った女性と目が合いかけて、林は慌てて目を逸らした。

 ちなみに林は女性の容姿を聞いていなかった。女性側は、もしものとき悪用されたら困るだろうという配慮からだ。

 コン、と。何気ない素振りでコーヒーを啜っていた林の目の前にトレーが置かれる。ゆっくりと顔を上げると、そこには先ほど眺めていた女性がいた。

「……あ、えっと。」

 近くで見るとやはり結構整った顔立ち。可愛らしい。でも、手の皺や首元から、同年代なのだろうか、ということが見てとれた。プロフィールに準拠するのであれば、彼女は林の一つ上の年齢。もしや、この人が?

「私のこと、ずっと見てましたよね。何か御用ですか?」

 林は固まり、愛想笑いを浮かべた。とても恥ずかしい。見ていたことがバレていたなんて。

「あ、いや。待ち人がいまして。もしかしてその人かなーと思っていただけです。」

 嘘は言ってないのに変な汗が林を襲う。気まずい。しかし、目の前の女性はにこやかに追求してくる。

「あら、そうなんですね。どんな方?」

 どんな方。訊かれて林は言葉に詰まった。プロフィールはなんとなく頭に入れてきたのだが、それを見ず知らずの人に話すと相手に迷惑がかかる。考えた末に彼は。

「自分と、最後の恋愛をしたい方、です。」

 自分でもおかしな返答だとは思った。でもいっそこの返答に怪訝な顔をして去っていってはくれないものだろうか、と林は思っていたのだが。

「……ふふっ、ふふふふ、あはは。へえ?貴方と最後の恋愛をしたい方を待ってるの?ふふ、ロマンチックね。」

 女性はひとしきり笑った後、林の向かいの席に座る。驚く彼をよそに、彼女は林に向かって右手を差し出した。

「初めまして。貴方と最後の恋愛をしたい女です。松原芙由希と申します。」

 わかって、近づいてきたのだ。タチが悪い。林は困ったように眉尻を下げた。

「貴女が“ふゆ”さん?意地が悪いな……。」

 応じるように手を差し出すと、しっかり握られた。小さいけど温かい手だ。林は思わず目を細める。離して、向き合うと芙由希は楽しげな笑みを浮かべていた。

「あら怒りました?ごめんなさい。不快にさせるつもりはなかったの。」

 ニコッと邪気のない顔。この顔をされたらなんというか、逆らえない。林はまずいなあとこの段階で察してしまった。話を聞いたら逃げられない気がしたのだ。

「いや、怒ったわけじゃありませんよ。……申し遅れました。林タツと申します。」

 林が名乗るとどんな字?と芙由希は興味津々に尋ねてくる。相手が小柄な女性だということもあるが、この無邪気さにこの時点で既に林は毒気を抜かれていた。

「はやしは森林の林で、タツは、カタカナです。母の趣味で。」

 ふんふんと頷きながら芙由希は楽しげに林の名前を呼ぶ。彼女に目を惹かれながら、林もつられて微笑んだ。

「カタカナ。それだとたくさんの意味が考えられていいですね。素敵なお母様だわ。」

 漢字を付けられてしまうと、何かしらの意味を持たされてしまうから。芙由希は笑いながらそう言った。

 綺麗な人だ。長い睫毛がくにゃりと頬の肉に乗って歪み、その口角は躊躇うことなく上がる。その人懐っこい笑顔に不思議と胸が高鳴った。

 そこでふと、林は疑問に思う。この人なら、マッチングアプリなどに頼らずとも恋人など容易に作ることができるのではないだろうか。そういえば、最後の恋愛とかいう不思議な文句の謎も解けていない。自己紹介も済んだのだ。林はそのことについて訊いてみることにした。

「そういや、松原さんはどうして、マッチングアプリに登録されていたんですか?その、他の方々よりプロフィールもシンプルでしたし。」

 訊かれることを予想していたのだろう。芙由希は余裕のある笑顔を浮かべ、ゆっくりと話し始めた。

「そうね。そのお話を最初にしないと。それにしてもよく、あんなプロフィールの女に声をかけようと思いましたね。」

 自分で言ってしまうのか。林は思わず笑う。実は、と林が飲み会での出来事を話すと、芙由希も小さく笑った。しかし、すぐに彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。

「……なら、あまり気持ちのいいお話じゃないかもしれません。」

 きょとんとする林に対して、芙由希はどこか儚く微笑む。その表情に林は思わず息を呑んだ。


「私ね、がんなんです。もしかすると、そんなに長く生きられないかもしれなくて。」


 なぜか、それが冗談だとは思えなかった。それでもまだ疑い半分で芙由希に視線を向けてみて、彼女の表情から嘘を言っているわけではなさそうだと感じた林は目を見開く。どこかふわふわしていた心が、急にずしりと鉛のような重さを持つのを感じた。

「難しい話はよくわからないけど、お医者さんが怖い顔をしていたわ。はっきりとしたことは言われなかった。でも、あまりいい状況じゃないことは伝わったんです。」

 私の最後の恋愛をしていただけますか。あれは、額面通りの言葉だったのか。林は言葉を失って目を伏せた。次にこの目の前の女性がどんな声を出すのか、怖くなってとても顔を見れない。

 でも。


「だから、全部済ませておこうと思って。」

 

 その声を聞いた林は驚いて顔を上げる。それは、あまりにもあっけらかんとした、明るい声だった。表情も爽やかなもので、芙由希は軽やかに笑っている。

「だって、もうすぐ死ぬかもしれないのよ?今までしてなかったことをしておかないと損じゃないですか。」

 林は動けない。命が危ないかもしれないと察した人間が、そんなに明るい顔ができるものなのだろうか。どこか信じられないものを見るような顔で林は芙由希を見つめた。

「私、恋愛をしたことないの。あ、人を好きになったことはあるんですよ?でもね、仕事の方が好きで後回しにしてたらいつの間にか30超えてたんです。怖くない?」

 はあ。ぽかんと口を半開きにして、林はペラペラと自分の恋愛遍歴について語る女性の声を聞いていた。一ミリも落ち込んでいない、そんな様子のない声。顔もニコニコしていて明るい。

 だけど林はそれが諦めた人間の顔だということを知っていた。死ぬことを受け入れているわけではない。諦めて、全部を手放そうとしている。目の前の女性はそんな顔をしていた。

「だから、誰かとお付き合いをしてみたかったの。全部済ませて、死にたい。」

 美しい笑みだ。完成されていて、まるで遠い昔に教科書で見た絵画のようだ。林は芙由希から目が離せなかった。

「でも、会って思いました。貴方にお願いするのはやめておいた方がよさそうですね。」

 ニコニコしながらフラれてしまった。林は半開きだった口をやっと閉じて、口の中を湿らせてから声を出した。

「どうしてか、伺っても?」

 カラカラの声は聞き取りづらかったかもしれない。しかし芙由希は微笑みを崩さないまま言った。

「貴方と付き合ったら後悔してしまいそう。ただ、それだけです。」

 不思議と、それを失礼なことを言われているとは感じなかった。林は一旦目を伏せて、それから顔を上げる。彼の目の中には一つの結論の光が浮かんでいた。

「なら、また松原さんは相手を探すんですか?」

 その言葉に芙由希はどこか面食らったように頷く。その反応を見た林はそうですか、と呟いて、何かを言おうと口を開いた。

「待って。言っちゃ駄目よ。大丈夫、貴方が初めてじゃないんです。まだ次の機会がありますから。」

 しかし、遮るように芙由希が口を挟む。だが、林は静かな目を彼女に向けてため息を吐くように声を発した。

「時間、ありませんよね。貴女の意思を尊重してくれるような人、今までにいらっしゃったんですか?」

 言葉での返事はなかったが、芙由希が目を伏せたことが全てを物語っていた。きっと、今までにそういう人はいなかったのだろう。

 林は善良な人間だった。秀でた頭脳も大きな体躯を生かせるほどの身体能力もなかったが、ひたすらに心根の優しい人間だったのだ。少なくともあんな事情を聞くと放っておけない程度には。

「確かに自分は遊び半分であのサイトに登録しました。本気でパートナーを望んでいる人に対して失礼な人間だとはわかっています。」

 林は自分でもよく分からない感情に胸の中を満たされていた。何でもいいから目の前のこの女性を放っておくわけにはいかない。そんな思いに突き動かされて、口を動かしていた。



「だけどほら、こうして出会うのも何かの縁ですし、何度か会ってみませんか?貴女の思う最後の恋愛に、興味があるんです。」


 

 

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