第90話 当代随一(魚沼蓮士郎)
ずいぶんと遠くへ来てしまった。
遠景に連なる山々を眺めて、真っ白い息を吐き出す。
どうして僕は、こんなところへ。
「まだ、ため息なんかついてらっしゃるの?」
しかも隣にはこの人、水無月聖良がいる。
僕は彼女が苦手だ。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、水無月さんは深刻な面持ちでスマホを手に取る。
「ええ……ええ、わかりました。では位置情報をもう一度早乙女さんに送ってください」
スマホをコートのポケットにしまうと、水無月さんはあらためて僕へ向き直る。
「青柳先輩の弟さんからまた情報をいただきました。ここからだと少し距離があるわね」
ふぅ。と淡く息をもらし、冷たい風になびく黒髪をおさえる水無月さん。
能面のような、あるいは人形のような整った顔立ちは、でも何を考えてるのか僕にはよくわからない。
青柳先輩から助けを求めるメッセージが水無月さんに届いたのは、昨日の晩だという。
獅子原先輩に誘われた合宿で僕も会ったことはあるし、今は弓削くんと付き合ってるって話も聞いた。
でも……。
「み、水無月さんは、青柳先輩とそんなに仲が良かったの?」
「……いいえ、プライベートのお付き合いはありません。けれどだからこそ、私を頼るなどという状況は一刻を争うものだと判断しました」
言い分は理にかなっている。
だけどそれで、人はこうしてすぐに動けるものなのか?
無駄足だったら?
いや、たとえ本当に危険な状況だったとして、そこに身をさらす意味は?
水無月さんの損得勘定はどうなっているんだ?
僕にはわからない。
水無月さんといると、なんだかひどく自分が冷酷な人間に思えてしまう。
「魚沼くん。私は位置情報の場所へ向かうわ。でも、気になるところがもうひとつ……」
水無月さんはそう言って、白い指先をまっすぐ一点に伸ばした。
「……あちら。すごく嫌なものを感じる。あなたもわかるでしょう?」
嫌な気配というのなら、バスを降りる前からずっと肌が粟立っている。
それが余計に気分を鬱屈とさせる。
尋常じゃない。
こんなドが付く田舎に、いったい何があるっていうんだ。
「……僕にできることなんか、なんにもないよ」
「あなたは私を助けてくれた」
「違う! そんなんじゃない。あれは、そんなんじゃないんだ……」
コツ。と、バックル付きの革製のブーツが一歩、僕へと近づく。
思わずたじろぎながら、顔をあげる。
「でも、あなたは今日ここへ来た。私の呼びかけに応じてくれた」
スラッと長身の水無月さんは、揺るぎのない瞳で僕を見ていた。
やっぱり直視できずに、目をそらす。
「そ、それは……だって僕は、君には逆らえないから」
「コレのせい?」
バッグから取り出された一冊の本。
その表紙が視界に入るだけで、はじまった動悸に胸を押さえた。
「こんなもの無くたって、きっとあなたはここに来た」
そんなわけない。
買いかぶり過ぎだ。
まるで受け取れと言わんばかりに差し出された本から、僕はあからさまに顔をそむける。
「そう……じゃあまだコレは、私が預かっておくわね」
再びバッグの中へおさまった本を確認して、ホッと息を吐いた。
「魚沼くん、あなたはこの禍々しい気をたどってください。私は青柳先輩のもとへ。それに……私とは別行動の方が、あなたも気が楽でしょ」
最後、少しだけ寂しそうに目を伏せて、水無月さんは背を向ける。
僕は水無月さんの姿が見えなくなるまで、ただ呆然と突っ立って見送った。
ひとりになった僕は、しかたなく山あいの歩道を歩く。
冬景色の山はとても静かで、寒い。
どこか自分の心情を映したような光景に、嫌気が差してまた逃げ出したくなった。
いつもそうだ。
僕はずっと逃げてきた。
家から。
自分自身から。
水無月さんから。
僕が望んだわけじゃない。
勝手に人生決められて迷惑してんだ。
って、そんな言い訳を続けていた。
道が二手にわかれていて、僕は瘴気の濃い右へ進路をとる。
いやだ、行きたくない。
意思に反して、足は重いながらも勝手に動いていく。
右手は鬱蒼と茂る木々。
左手に面した川のせせらぎは、もはや悪鬼の呻きにしか聞こえなかった。
小さい頃は、よくこういった怖い場所に連れてこられてた。
当たり前だ。
そういう家系なんだから。
それがいやでいやで、僕は逃げ出したんだ。
水無月さんはどうして僕なんか信用できる?
友達……というほど親しくはない。
彼女の視点では、たしかに僕が救ったことになるんだろうけど、それだけだ。
もし逆の立場なら、それだけで僕は相手を信用に足る人間だなんてきっと思えない。
こんなんだから、まともな友達すら僕にはできなかったんだろう。
弓削くんは……いや。
水無月さんの言葉を借りるなら、プライベートな付き合いもないのだから、友達だなんて呼ぶのはおこがましいかな。
だけど楽しかった。
都市伝説創作部も、文化祭も。
はじめて、自分を普通の高校生だと感じられて楽しかったんだ。
やがて僕はそこにたどり着いた。
川べりの水路上に建っている、苔むした木板の小屋。
「水車……?」
破損した大きな水車が、稼働することもなく置物と化している。
多少の距離からでも蜃気楼のように外観が歪んで見え、みっともなく足がすくんだ。
ああ、いやだ。
どうして僕は、こんなところへ来てしまったんだろう。
水無月さんの言葉を思い出す。
“それでもあなたは、ここへ来た”
僕は――弓削くんの友達じゃないのかもしれない。
けれど……そうだな。
たぶん、だったら友達になりたいんだ。
水無月さんみたいな崇高な精神じゃない。
友達が、友達の大事な人が困っているのなら、きっと助けるのが当然なんだろうから。
本当は違うのかもしれないけど、友達のいない僕にはわからないから。
そういうものを、望んだんだ。
建てつけの悪い水車小屋の扉をガタガタと開く。
埃っぽい室内には、放置された石臼くらいしか目につくものはない。
ただ、吐き気を催すような悪寒が全身に広がった。
憎悪が渦巻く、まるで負の感情の集積所みたいな場所だ。
床の一部が蝶番付きの跳ね扉になっているらしく、どうも発生源はそこらしい。
一歩近づけば、半透明の腕が何本も、何本も、跳ね扉を通り抜けてにゅるにゅると伸びてくる。
まぎれもなく幽体だった。
「ああ……ああ……こんなに、たくさん」
幾本もの腕が僕の足に、腕に、首に絡まり、ギリギリと締めつけられる。
酸素が欠乏し、意識が遠くなる。
思い出す、幼少の頃を。
何度も何度も、こんな怖い思いをした。
現世と幽世の狭間にあるのが幽体であり、強烈な負を宿した幽体は人を襲うのだ。
「が……ぐ……っ……」
幽体には、理不尽にも決して人間からは触れることができない。
唯一の例外が、人が死の間際に触れていたもの。
たとえば着ていた服や、もしボールペンを握りしめたまま亡くなったのなら、そのボールペンが。
それらの物品のみが幽世に引っ張られて、幽体に触れ得る対抗手段となる。
そんなことばかり、教え込まされたっけ。
僕は首に巻きついた幽体の腕へ素手で触れると、ぶちぶちと引き千切った。
退魔を祖とする家系に生まれ、幾人もの死に触れてきた。
祖父の手を握り、祖母の手を握り。
叔母や親戚だけでなく、懇意にしている病院や老後施設にも連れていかれ、死の間際にいる人の手を握らされて。
その手から体温が失われるまで、ずっと、ずっと……。
子供の頃から、ずっと、人の体温が失われる瞬間をこの手に感じてきた。
「はあ、はあ……ははは」
足や腕の幽体も払いのけると、弾けたように幽体が消えていく。
いつしか僕の体は、道具なんてなくとも幽体を滅せるほどに幽世へ染まっていた。
当代をしてもっとも優秀な退魔師だと持て囃され、父も母も大層に喜んでいた。
冗談じゃない。
ふざけるな。
僕は、僕は、そんなの望んじゃいなかった。
「はは、はははは!」
水車小屋の中を駆け回り、手当たり次第に腕を振るう。
絶え間なく出現する幽体を、現れたそばから滅していく。
「はははははははははは!!」
僕は怖い。
幽体に触れることで、自分が人間じゃないような気になって。
自分が自分じゃなくなるのがたまらなく怖くて。
だから逃げている。
いつまでも、どこまでも、この宿命から逃れるために。
――気がつけば、水車小屋の中にはもう、幽体は存在していなかった。
いや、微かに鈴の音が聴こえて、何体かはそっちに向かっていったようにも思う。
ひとまず外に出てみると、辺りには夕暮れが訪れていた。
空虚な心境で、手のひらへ視線を落とす。
この手がもし、少しでも弓削くんや青柳先輩の役に立てたのなら。
ほんのわずかだけ、自分を肯定してもいいと思えた。
「……こんな僕でも、友達になってくれるかい? 弓削くん」
空に消えていく白い息を見上げ、また前を向く。
さっさとバス停に戻りたい気持ちをおさえて、自分の意思で僕は水無月さんのあとを追った。