彼女が不機嫌な日の朝
6月も終盤。
海翔が女子になっての初登校の日から1ヶ月が経った。これまで特に大きな問題は起こっていないけど、これはクラスの人気者の中原さんが海翔を気にかけてくれたのが大きい。
ただ、中原さんが言うには「海ちゃんの事、良く思ってない子もいる」らしいし、気を払っておかないとな。
当の本人は最初の不安はどこへやらといった様子で学校生活を楽しんでるっぽいけど。その受け入れの早さは見習いたいわ。
もしかしたら好きな中原さんと距離を縮める事が出来たのが嬉しいのかもしれない。いつの間にか下の名前で呼び合ってるくらいの関係になってるし。
「おはよ……」
「おはよう、今日は遅いじゃないか……」
ガチャリと海翔の家のドアが開き、挨拶をしながら海翔が出てくる。それに応じながら振り返って海翔の顔を見て驚いた。
「どうした、顔が真っ青だぞ」
「うん、大丈夫だよ……多分」
声にも覇気がない。どこか体調を崩したと見える。
「体調悪いなら無理せずに休んだ方がいいと思うけど」
「大丈夫だって。ちょっと……ちょっとお腹が痛いだけだよ。原因も分かってるし」
ふむ、腹痛か。いよいよ夏本番も近付いてきてアイスや冷たい麺類がおいしくなってくる季節だから後の事を考えずにいっぱい食べてお腹を冷やしたのかもしれないな。
「ここのところ暑いからって冷たい物ばっかり食ってたんだろ? 気をつけろよ?」
「……うん、そう……だね。ご心配どうもー」
心配の言葉をかけると海翔からはどこか呆れたような、素っ気ないような返答が返ってくる。
「俺、何か変な事言った?」
「いや、何もおかしくないよ。ありがとね」
ぎこちない笑顔を向けてくる海翔。その理由は体調が悪いからなのか、それとも……。
どこかすっきりしないまま、俺たちは学校へ向かって歩き出した。
◆
海翔が女子になった直後は「歩くのが速いよぉ」って文句を言われてた。歩幅が小さくなったから、男だった時より遅いのは当然と言えば当然の話だ。
それで、海翔はもう女の子なのだ、と自分に言い聞かせて最近はペースを合わせられるようになってきた。でも、今日は歩くスピードがいつもより遅い。
海翔の家を出発したのも遅かったし学校に着くのは遅刻ギリギリかもしれないな。普段からかなり余裕を持って出発していてよかったと思える瞬間だった。
「本当に大丈夫か?」
「薬も飲んできたし大丈夫だって。心配しすぎだよ」
歩みの遅い海翔を気遣う言葉をかけると、若干イライラされながらもようやく駅に着く。さっきから心配しているだけなのに妙に強く当たられているけど、体調が悪い時は機嫌だって悪くなるし、仕方ないと思う事にした。
結局、海翔の家から駅まで20分もかかっていて、海翔が男だった時からすると倍の時間がかかっている。ただ、駅に着くころには海翔の顔色もだいぶ良くなっていた。
「薬が効いてきたか?」
「うん、少し楽になってきた。心配かけてごめんね」
平気であるのをアピールをするように駅の階段を上がり始める海翔。膝が隠れるくらいの丈のスカートがフリフリと揺れるのを見て、後を追いかける。このまま立ち尽くしていたら見てはいけない物が見えてしまうかもしれないからな。
……興味がないわけではないが。
海翔の体調も良くなったのに一安心したのもつかの間。
ホームに着いた俺たちは電車を待ちながら普段より騒がしいアナウンスを聞いていると、どうやら近くを走っている別の路線が運転見合わせていて、その振替輸送をしている都合で少し電車が遅れているらしい。
「電車、混んでるかもな」
「はぁ、どうしてこんな日に……まいっちゃうねぇ」
そして、ようやくホームに入ってきた電車を見てまたげんなりとした気分になる。窓から見える電車の中は人。人。人。人ですし詰め状態の満員電車だった。
「うえ……」
この状況を見た海翔もうんざりとしていた。
電車が停まり、開いたドアから降りる人数もまばらで大した空きは見られない。乗り換えがある駅でもないから当然ではある。
俺達が陣取ったドアから乗る人はいなかったので、すぐには乗らないで海翔に声をかけた。
「どうする? せっかく体調良くなってきたのにこんなの乗ったらまた悪くなるんじゃないか」
「これ乗らないと遅刻になりそうだし。体調なら大丈夫だよ」
多分、と付け足す海翔。
俺としてはやや不安が残るけど、本人がいいって言っているんだから信じよう。ここでまた心配すると機嫌を損ねそうだし。
「わかった、じゃあ乗ろう。ただ、キツくなったら言えよ」
海翔がこくん、と軽く頷くのを見て電車に顔を向ける。幸い、降りた乗客がいたであろうドアの前のスペースが空いたままだった。
俺たちが降りる駅までこちらのドアはもう開かないので、都合がいい。
体調が悪い中で人に囲まれるよりは壁に寄り掛かれた方が楽だろうと思い、先に電車に乗り込んで海翔の分のスペースを確保した後で手招きすると海翔が乗り込んできた。
が、何しろ満員電車だ。余分なスペースがないからいつもより距離が近いし、真っ正面から見つめ合う形になってしまう。いや、少し上を見れば身長が低くなった海翔を見なくて済むんだけど、キラキラと透き通った黒目から視線を外せなかった。
「あ、あんまり見ないで……」
「す、すまん……」
恥ずかしながら小声で抗議してくる海翔に謝ることしかできず、そうしているうちにドアが閉まって電車が発進する。
その弾みで海翔の方にふらついてしまい、ちょうど海翔の頭の横に右手を伸ばしてドアを支えにバランスを取った。偶然だけど、このポーズってどう考えても……。
「……壁ドン? 古くない?」
海翔も同じ事を考えたらしい。
「違う、掴む物がないからこうなっただけだし」
「ふふ、分かってるよ、冗談だって。ただ、変に緊張するから手は離してくれない?」
「それって俺にドキドキしたって事?」
「そんな訳ないでしょ」
からかったつもりだったのに、なんて事ないように流されてしまったので手を離そうとして……右手の方を見て、視界に映った物を見て気が変わった。
「やっぱりやめた、このまま海翔をドキドキさせよ」
直接その理由を言いたくなかったとはいえ、口から出た言葉に自分でも何言ってるんだろうと思った。その証拠に海翔もはぁ? と呆れたような表情になる。
「何馬鹿な事言ってるの」
「……今のは自分でもどうかと思った、すまん」
「じゃあ、手離してよ」
「それは、ほら、この先も揺れたら危ないからこのままでいさせてくれよ? 海翔には悪いけどさ」
少しの沈黙の後で仕方ないなぁ、とOKを出してくれたので、遠慮なく壁ドンを続ける事にした。
満員電車の中であまり話しているのも周りの人に迷惑なので、黙ってドアの窓から流れる景色をしばらくの間眺めていると、カーブに差し掛かった電車が傾いた。背中に他の乗客の体重がかかった俺は、やむを得ず海翔の方に身体を近付けていく。
手をついていなかったら海翔の方に倒れそうになっていたかもしれないな、危なかった。
……それにしても。
さらに俺が近付いたのが恥ずかしかったのか、うつむいて俺から視線を外す海翔であったが、そのせいで艶のある黒髪に浮かび上がっている天使の輪っかを間近で見ることとなった。
シャンプーのものだろうか、なんだか華やかないい匂いに鼻腔をくすぐられ、そのままの体勢で固まってしまう。
「……変態」
「ふらついただけだろ」
「鼻息がふんふんって荒くなった」
「……気のせいだろ」
「気のせいじゃないよ。だって、こんな満員電車の中なのに……」
そこまで言って何かに気付いた海翔は周りを見て、納得したように深く目をつぶった後、俺を見つめてくる。
隠し通そうとした事がバレたのと美少女に見つめられているのが相まって、恥ずかしさが限界を超え、今度は俺が視線を反らすのだった。
◆
「満員電車って最悪……」
「同感だ……」
学校の最寄り駅で満員電車から解放された俺たちは、すでに疲れ果てた体を動かして学校までの道のりの歩いていた。
「人の熱気で暑いし」
「もうちょっと冷房効かせてくれても良かったよな」
そうだねえ、と同意の後で海翔が続けて問いかけてきた。
「ねえ……臭くなかった? 汗とか」
「変態って罵倒しておきながら感想を聞くのか?」
「感想じゃなくてさぁ……イエスかノーで答えられるじゃん」
「それならノーだな」
むしろいい匂いだったとは言えるはずもなく、イエスノーで答えられて良かった……
「やっぱりにおい嗅いでたんだ……ばか」
どうやら馬鹿があぶり出されたらしい。
「……嗅ごうとして嗅いだ訳じゃなくてな、ふわっといい匂いがしたからつい」
「つい?」
ジト目で俺を見ているつもりであるのだろうが、見上げる事になる都合、どうしても上目遣いをされているようで心臓によくない。
……それは置いておくとして、ここは素直に謝った方がいいだろう、確かに他人に自分の体臭を嗅がれるのはいい思いはしないし。
「すまん」
「別に謝ってほしいわけじゃないんだけど……怒ってるわけじゃないし」
「そうなのか? いやでも普通に考えて嫌だよなぁと思って」
「嫌ではあるけど……今回はまぁいいよ、守ってくれてた訳でもあるからね」
……気付かれてたか。
あの時、海翔の隣にいたのはサラリーマンの男の人だった。それに気付いた俺は、海翔と彼の間に付いた手をそのままにして牽制をかけていた。
「隣の人には悪かったけどな。勝手にそういう事をするかもしれないって目線で見てたんだから」
「陸の感覚ではそうだろうけど、こっちからすると近くにいる男の人にはそれぐらい注意しないとやっていけないんだよなぁ」
「女子って大変だな」
「大変だよ」
足を止めて大きくため息をつく海翔であったが、その後、表情を変えてこう言った。
「……だから、ありがとね。守ってくれて」
嬉しさを隠そうとせず、精いっぱい伝えようとするような笑顔を俺に向けてくる。
海翔からこんなに感情をストレートに伝えてきた覚えは今までなかったけど、これも女子になったのが関係しているのだろうか。
そう考えて、どこか複雑な気分になると共に向けられた笑顔の可憐さに思わず視線が釘付けになった俺は、気恥ずかしさもあって「おう」と軽い返事しかできないのだった。
◆
「ボクが女の子になってから初めて学校に行く時、ボクを守る自信なんてないって言ってたのに、ちゃんと守ってくれたじゃん。電車に乗る時もボクがドア側になるようにしてたし」
「陸ったら自信なさげなくせにそういうのはさりげなくやってくるんだからほんとに……」
「あぁ、お腹がうずくなぁ」