06 訓練の前に
私と白さんの亀山の家は、外から見ると通りに面した小さな薬屋なのだが、内に入ると思った以上に広い。
まずなにより地下が三階まである。その地下の一階一階が地上の敷地面積の三倍の広さで、大体ひとつの階に十部屋はある。
地下二階階には私が〈獣化連携〉を長時間集中して行える部屋が設えてあるし、地下三階には白さん専用の研究室がある。白さんはそこで〈法印術〉や薬の研究、それに妖魔の改良……、なんて怪しいことをしている。
地下一階は実質的な居住空間で、ここには地上からの光が取り込まれて、地下とは思えないほど明るい。
地上の建家部分は地下より狭いが、薬の販売と陳列の空間を除いても、三部屋ほどはある。その他に内庭もあって、これには現実の物理的空間よりも広く感じられる術式が掛けてある。
私にも仕組みはわからないけれど、内庭に入ると空間がドーム状に広がるような気がする。いや、実際に広がっている。これは地下三階で夜な夜な怪しい研究と実験を繰り返している白さんの仕業だ。
とにかく、その伸縮する内庭に私と雹次は来ていた。
「何度入っても気持ち悪いなぁ」
雹次は拡張した内庭に立って空を見上げたらしかった。
私も釣られて閉じている瞼を空へと向けた。内庭から見上げた空からは少し緑がかったエネルギーを感じさせた。
「そのおかげで、ここで訓練ができるんじゃない」
私は雹次が乗っている新しい〈蹴壁〉の鼻を撫でてやりながら言った。
私がケルペイを撫でるのを雹次は恥ずかしそうにして見ているらしかった。私は雹次の態度でケルペイの鼻と雹次の股間が近いことに気づいた。雹次は目の見えない私を気遣ってじっとしているのだろうか。
私は何か意地悪な心が湧いて、
「このマセガキがぁ!」
と雹次の頭を叩いた。
「うるせぇ!」
雹次は手で頭を庇いながら喚いた。
「あんた感謝しなさいよ。私にも白さんにも」
「わかってるよ! いいから、早く教えろよ!」
雹次は小さく頷いて答えた。白さんの前では絶対にこんなことは言わないが、私に対しては少しは素直になって来たみたいだ。
◇ ◇ ◇
「あんた才能ないわ!」
私はついつい厳しい口調になった。
ついさっき、素直になって来た、と思ったのは大間違いだった。
雹次は私の言うこと為すこと一々に反論してくる。物凄く優しい私も流石にブチ切れ寸前だ。
「雪花の言うことってさぁ。全部曖昧でぼんやりしてんだよ。そんなんでよく生きてこられたよなぁ」
「コラァ、雪花じゃないでしょ。雪花さんでしょ!?」
「雪花の分際で生意気なこというなよ!」
雹次が軽い感じで返して来た。
私に真っ向から盾突くのではなく、あえて自分の上位を示すように、こちらを呑んだ態度が私を完全にキレさせた。
私は獣化連携を使ってケルペイをハックした。
私の怒りが伝わるのか、ケルペイの目が怪しく血走った。体中の毛がぶるぶると逆立って来た。
「おいおい、なんだよ……」
雹次は異変に気付いて、ケルペイの頭の毛をぐっと握った。
「雪花さん。そう呼びなさい」
私はもう一度言った。
「雪花は雪花だろ……」
雹次が口を開いた瞬間に私はケルペイを暴走させた。雹次の答えを聞く前から暴走させることを決めていた気がする。
ケルペイは怒りの感情の種を入れられて凶暴になった。自分の上に乗っている雹次を襲おうとして色々に動き回った。小さな前足で雹次を狙ったり、大きな後ろ脚を上げて、雹次を掻き落そうとしたりした。
とにかく異常に殺気立って、その気を感じた雹次は、前足や後ろ脚に引っかかれないように、ケルペイの頭にぴったりと張り付いた。
ケルペイは前足も後ろ脚も届かない事を悟ると、今度は雹次を振り落とそうとして、滅茶苦茶に走り回り始めた。内庭の地面から壁から天井のドームの上まで、上下もなく駆け抜け、また急な方向転換を何度も繰り返した。
「おいぉい、なんだよぉぉ、これぇぇ! 止めてくれぇぇぇ!」
雹次は振り落とされないように、必死でケルペイの頭に抱き付いていた。その抱き付いた腕にケルペイが噛みついた。
私は怒りの感情が湧いてからは、視界を確保するために燕をハックして、走り回るケルペイと雹次の様子を見ていた。素早い燕の目で見ても、ケルペイの動きは機敏で、この妖魔のポテンシャルを感じずにはいられなかった。
「おいおい! たすけろよぅ!」
私がケルペイの能力に思いを巡らせている間に、振り落とされた雹次はケルペイの脚の間に組み伏せられて、今にも噛みつかれるところだった。
「なんだぁ? 騒がしいな」
そこへ白さんがやって来た。
「おい、白心なんとかしてくれぇ!」
雹次はなりふり構わず、白さんに助けを求めた。
白さんがほんの微かにアウラを出すのが感じられた。すると暴走していたケルペイが私のハックから一瞬で解かれた。ケルペイは元に戻って、雹次の横にすとんと座った。
「これで獣化連携の危険さはわかったでしょぅ」
私はこの場を取り繕おうと思って、まるでこれも訓練の一環だとでもいうように澄まして言った。
白さんにこんなことをしても誤魔化し切れないのは分かっているけれど、私が悪いと思っていることは伝わるだろう。
私は燕を自分の肩に留まらせて、燕の目で白さんのほうを窺った。
「雹次、やらかすな」
白さんが困った顔でぼそりと呟いた。
「白しぃん! これを見てもそう思うのか!?」
「雪花はこういう子だ。お前がやらかすな」
白さんの何気ない言葉に私はショックを受けた。
ああ……
「白心、こらぁ。俺がケルペイに乗る限りこいつの……」
「こいつぅ!?」
私は自分でも驚くほど大声を出していた。白さんに受けた傷を、雹次に八つ当たりで返したのだろう。
雹次はビビりながら、
「この人、あのこの、雪花が……」
「さん、だよね。雪花さん!」
「あのつまりだな、こちらの雪花さんがですねぇ。獣化連携を使ってるってことはだなぁ。ですから、俺、いや、私は、あのぅ……、とにかくさぁ、雪花さんのまるで下僕じゃないですかぁ」
雹次は丁寧に喋ろうとして言葉が滅茶苦茶になった。それを聞いた白さんが、
「そうかもしれないな。しかし、雹次。お前が獣化連携を本当に身につけられれば、こんなことはもう起こらないだろうなぁ」
それを聞いた雹次ははっとした顔をした。
「そうか。そうだな! そうか、そうかぁ! よしッ! 俺は絶対に獣化連携を完璧に習得してやるぞ! それでこの下僕の地位からのし上がるんだ!」
雹次は目を輝かせて、隣に座るケルペイの頭を撫でた。殆ど叩いたと言ってもいい。ケルペイは迷惑そうな顔をした。
白さんは面白そうに笑っていた。
私はそんな白さんを見て、私の行動までも計算されていたのではないかと思った。白さんが私を理解してくれていることに喜んでいいのか、それとも憎らしく思ったらいいのか、なんとも言えない気持ちになった。
「しかしまぁ。次の暴走のために、内庭はもっと広げたほうがいいのかもなぁ」
白さんがぼそりと言ったのを聞いて、雹次の顔が青ざめた。
「白さん。今日は雹次君に理解してもらうためにワザとやったことなので、今後はありませんよ」
私は一応言っておいた。
そんな私を白さんは優しい目で見返して来た。雹次は私の怒気に首を竦めた。
私は肩に留まっている燕を巣作りに返してやった。それで私の視界は失われて、白さんの顔も雹次の顔も見えなくなった。
私は瞼で春の光の煌めきを受け止めながら、なんとなく飛んでゆく燕の方を向いた。白さんも飛ぶ燕の方を見たらしかった。私はそれを感じて安心した。