05 雹次と蹴壁
「白心! 出てこいぃぃ!」
外で誰かが叫んでいる。
私がふっと上を見上げる仕草をしたので、白さんは気を辺りに巡らせた。
白さんの圏圧が広がっていくのが感じられた。
「白さん、誰か来たみたいですね」
「そうだな。敵意がある」
白さんはそう言って、自分の顎を触り首を傾げたらしい。
子どもの声で叫んでいたので、私には思い当たる節があった。
白さんには声までは聞こえていないので状況が呑み込めないらしい。私は白さんより耳がいい。
「ちょっと行ってくる」
白さんの気配がふっと部屋から掻き消えた。
「こらぁぁ、白心! 出てこおぉい!」
子どもの叫び声と白さんの足が店先の地面に降り立つ音、それに少年が絶句した喉の音が聞こえた。周りで少年を揶揄う人々の音も虫のざわめきのように聞こえてきた。
私は〈獣化連携〉を使って地上の薬屋の店先に雀を向かわせた。
そこには私の予想通り、先の襲撃による火事で脚を無くした少年が地面に這いつくばって叫んでいた。それを笑う子どもたちや遠巻きに見つめる大人たちが群がっていた。
這いつくばっている少年の体にはたくさんの痣や傷があった。
少年の服は破れ、肘から腕、手のひらまで、体の前面は血だらけだった。その血が渇いて泥と混じり合いぐちゃぐちゃになっていた。脚を無くした少年はここまで這って来たのだ。
少年は体を滅茶苦茶にしながら、それでも目は爛々と輝いて、生きる意味を見つけた人間が最後の炎を燃やしているようで恐ろしかった。
私は興味を惹かれて、少年をもっとよく観察した。這っていては擦れることのないだろう首や肩や背にも痣や傷があるのを見つけた。
周りで笑う子どもたちの手に小石が握られているのを見て察した。
少年はそんな子どもたちを一切気にすることなく、ただ店の前に辿り着いたのを誇って、白さんの名を呼んでいたらしかった。
そうして本当に目の前に現れた白さんに驚いた少年は気を入れ直して、
「白心! 俺と勝負しろ! 俺が勝ったら俺の下僕になれ!」
大声で叫んだ。
それを聞いて周りで笑う者たちがいた。少年にその笑い声は聞こえていなかった。ただ真っすぐに白さんを見上げていた。
「自分の面倒は自分で見ろ」
白さんは少し考えてから、はっきりそう言った。
それを聞いて周りの笑い声が大きくなった。脚のない少年を馬鹿にする雰囲気が充満した。その雰囲気に流されて、一人の子どもが少年に向かって石を投げた。少年の頭に当たった。投げた子どもはっとして周りを見渡したが、叱る者もいないので、前を向いてまた石を構えた。
這いつくばる少年の頭から赤黒い血がじっとりと流れてきた。傷口から噴き出す血の音が私の耳元でドクドクと聞こえる気がした。
私は耐えられなくて、雀でちゅんと鳴いた。
すると白さんがこっちを見た。小さく頷いた。
子どもがまた石を投げた。私は飛んで、雀の体で石を受けた。ドンッという衝撃でその場に落ちた。羽が一瞬痺れてぴくぴくと痙攣した。私はこの雀を駄目にするわけにはいかないと思い、雀の体に鬼力を通した。雀は一命を取り留めた。
私に石が当たったのを見た白さんから膨れ上がるものを感じた。
辺り一帯がアウラに包まれた。
それは地面から噴き出す熱い湯気のようだった。周りの人々の顔色が一変した。皆怯えてその場にかがみこんだ。
そんな中でも、脚のない少年の目はギラギラと輝いて、白さんをまっすぐに見つめていた。
「自分の面倒は自分で見ろ。その手助けならしてやる」
白さんが静かに言った。
この空間の中でただ一人白さんだけが真っ直ぐに立って、皆を見下ろしていた。
少年はそんな白さんを睨んでいる。
何に対しての反抗なのだろうか。その目の中にあるものは、白さんに対する敵意だけとは思われなかった。その目には覚悟と悲しさがあった。
二人はしばらく睨み合っていた。
「ちゃんと世話をしろ」
少年が何か折れたような声音で言った。
白さんが頷いて、少年を抱え上げた。店の暖簾をくぐって中に入って行った。
それを見送っていた野次馬たちの元から白さんのアウラも消え去った。
恐怖から解放された人々は、何かあっけにとられるものがあるのだが、その理由も正体もわからないので、それぞれに呆然として解散していくのだった。
はっと見ると子どもたちの手に握られていたはずの石はすべて砕けていた。それに気づいた子どもたちは悲鳴を上げて逃げ出した。
◇ ◇ ◇
「雪花、妖魔の件は俺がやっておくことにする。それよりも雹次に獣化連携のコツを教えてやってくれ」
数日後、白さんは新しい〈蹴壁〉を連れて帰ってそう言った。
ケルペイというのは、袋付きの垂れ下がった大きな耳、それに二本の巨大な後ろ脚と小さな前足が特徴の二足歩行の妖魔の名前だ。
ウサギとダチョウを合わせて、人間の腰丈くらいの大きさになったものと言えばいいだろうか。
妖魔としての危険度は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の中の甲で、十ランク中の最低レベルだが、その素早さは〈壁を蹴る〉という名前からもわかる通りに侮れない。
甲ランクの妖魔は好事家の間でペットにされることも多く、ケルペイもその中の一種だ。特に最近一気に流行り出したらしく、扱いも多くなってきている。
私はケルペイが流行っているとか、妖魔の甲ランクがペットになっているとか、そういう話に妙な違和感を覚えた。ケルペイという妖魔をつい最近まで知らなかったような気がしているのだ。しかし、それ以上のことは何も思い浮かばなかった。
とにかく、私は妖魔の実験を行わなくて済んでほっとした。
「ケルペイと獣化連携して、雹次を歩かせるつもりですか?」
「そうだよ。そのために元気そうな蹴壁を連れてきたんだからね」
「獣化連携ってそんな簡単なもんなんですかぁ?」
「いやぁ、お前以外がやってるのを知らないなぁ。でも、できる人間が身近にいれば出来るだろう。人間ってそういうもんだからな」
私は滅茶苦茶すぎる白さんの意見に批判より先に笑ってしまった。
「そういうもんですかぁ」
私はあやふやな返事をしながら、内庭から聞こえるケルペイの足音と、それに乗る雹次の息遣いを聞いた。
雹次というのは、先の鶴田の襲撃によって家を火事で焼かれ、両足の腿から下を失った少年だ。その少年が白さんを無理矢理逆恨みして、この薬屋に襲撃してきたのが数日前。
親のない子で、それが脚まで失って、ここに来るしかなかったというのが本当のところだろう。そんな雹次を白さんが引き入れて、ここで暮らすことになった。
雹次の夢はずっと前からケルペイを操って飛脚をすることだったらしい。
私はこのことにも違和感を覚えた。そもそも数日前まで脚があった人間が、何故ケルペイを使って飛脚になることを夢にするのだろうか。
ケルペイの大耳にある袋に脚を入れて乗りこなせるのは、今の雹次のように脚を欠損している人間だけだ。ケルペイを脚の欠損の補助に使うのは昔からある方法で、〈三記〉に記録もあるようだが、しかし、まあ、獣化連携までするとなると、どうやるんだろうか。
「白さん。ケルペイって昔からいたんですか?」
私は思わず呟いていた。
白さんは私を見つめて、
「ああ。三記にも書いてあるよ。どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」
私は白さんが嘘をついているか、または何か勘違いをしているのではないかと思って、鼓動や気配を探ったが何も感じられなかった。
「そうですかぁ。そうですよねぇ」
私は自分の勘違いかと思った。
「雹次ぃ、獣化連携の練習するわよ!」
私が叫ぶと、雹次が緑毛のケルペイに乗って姿を現した。そして白さんが連れている新しいケルペイを見て、
「やっとまともなケルペイがきたなっ!」
非力で小さな家飼いケルペイに跨った雹次は笑顔になった。
私は雹次が練習用に乗っているケルペイを見て、もう二年になるかぁ、と心で呟いた。このケルペイを二年は飼っているらしい。しかし、そう思っただけで、このケルペイに愛着も何も感じない自分を発見した。
私はこんなに冷淡だっただろうか。
「早くやろうぜ!」
雹次がせっついて来る。
少し考えを巡らせたが、何も思い浮かばないのだった。
私は獣化連携をどう教えたもんかと頭を捻りながら、雹次と一緒に内庭に向かった。