09 梅近右左衛門
「この先はもうあの屋敷しかないわね」
「あの跳ねっ返りが手引きしてやがったってことか」
私の呟きに雹次は通りの先を睨みつけながら応えた。
私たちが僧装の男を尾行して辿り着いたのは龍姫の屋敷だった。
尾行したのは、傀儡子芝居の〈梅近一家〉とすれ違った時に入れ替わった方の男だったが、入れ替わりは私たちへの警戒で行われていたわけではないらしい。素直に龍姫の屋敷に進んだのがその証拠だろうか。
雹次は土塀の陰から僧装の男の後ろ姿を見送って、
「亀山は外からも内からもボロボロじゃねぇか」
「〈八門〉が現れた場所はどこもこうなるのよ。大変な目にあったのはあんただけじゃ……」
私は知ったような台詞で、「誰もが何らかの悲劇を体験している」と言い掛けたが、当事者にとっては何の慰めにもならないことに思い当って言葉を切った。
人間は何故無駄な言葉ばかり吐くのだろうか。自分が憎くなった。
私は実用的な頭に切り替えて、
「白さんが戦を小さくするって言ってたわ」
「情報と戦は別物だ! 人間一人に何ができるってんだ! もし戦の規模が小さくなったって、犠牲者は必ず出るだろうが!」
雹次は急に反発心が湧いたようで、感情を露わにしたが、それでもまだ声を落として、理性の糸の上に乗っていた。自分をギリギリ抑えられている雹次を私は抱きしめてやりたくなった。
「出来ることをやる。嘆くのはその後ね」
私は雹次の肩に手を掛けた。そして包むように柔らかい声で言った。
それを聞いて雹次は息を吐いて、また僧装の男を目で追うのだった。
それから雹次は突然に土塀の陰から出て、さっと前に進んで行った。
「雹次、何するつもり!?」
私は思わず高い声が出た。
「最後まで確かめる!」
「馬鹿っ! この先は隠れるところもないのよッ!」
私が止める声よりも、雹次の〈蹴壁〉の脚の方が速かった。雹次は通路を真っ直ぐに歩いて行った。
前を行く僧装の男はこちらに背を向けて気づく様子もない。しかし、雹次が数歩行くと、男の肩がぴくりと動いたのが見えた。私はそれを男の近くの塀の上に留まっている目白の目で捉えた。
気づかれた……。
それが直感的にわかった。
雹次を連れ戻さなければ!
私は雹次を声で呼び戻そうかと一瞬逡巡したけれど、次の瞬間には私も通りに踏み出していた。
隠れるところもなく、この先にある屋敷も一つしかない。もう誤魔化しようがない。
私は何を思ったか、感情が振り切れて、雹次よりも大胆に道の真ん中を歩いていた。
私の瞼に温かい春光が当たっているのが感じられた。
私は一時の快感を味わっているだけなのだと、自分でも分かっていた。
◇ ◇ ◇
僧装の男は私達を振り向くこともなく、龍姫の屋敷に入って行った。
気づかれたと思ったのは私の勘違いだったのだろうか。
私は雹次に追い付いた。
私たちはすぐに引き返すわけにもいかず、道を間違えて迷い込んだ二人組を演じることになった。そのまま通りを真っすぐに進んだ。龍姫の屋敷の前まで来て、ああ間違えた、と芝居をした。
私たち二人は顔を見合わせた。
雹次は私を見て、私も見えない瞼で雹次を見返した。二人で息を吐いた。
「戻るわよ」
私は雹次の胸をドンッと強く叩いた。
「悪かったよ」
雹次は悪怯れた様子もなく明るかった。その目は「なっ、大丈夫だっただろっ」と得意気に言っていた。
私たちは振り向いた。通りを戻ろうとした。私の目白も今来た通りを見通した。
「……」
息が止まった。
通りの向こうに黒い人影が見えた。誰かが歩いて来ていた。
◇ ◇ ◇
「あら、お二人さん。どうしたんだい?」
声を掛けてきた男は先に私たちが尾行していた裳付衣の僧装の男だった。
ほっそりとした女のような体がそこに立っていた。
男の声は艶っぽかったが、それと同時に、何度も使われ鍛え上げられた声帯から発せられている音なのだと察せられた。奥に芯のようなものがあった。
私はついさっきまで尾行していた男の姿と、今目の前にいる男の姿とが殆ど瓜二つのように思われてきた。そう言えば、町で人間が入れ替わった時にも、入れ替わったことだけが分かったのだった。別の人間になった感じはしなかった。そのことに今になって思い当たった。
「いやぁ、道に迷っちまってよぅ」
雹次が何か柔和な雰囲気で、子どもの声の丸さで答えた。
「そうかい、そうかい。世の中には危ない間違いもあるからねぇ。間違える時は気を付けることだなぁ」
僧装の男はニヤリと笑った。
「いやぁ、そいじゃぁ、どうも」
雹次が曖昧に言って、先を急ぎかけた時、私は嫌な予感がした。転ぶ振りをして、雹次を自分の方に引き寄せた。
スフッ
今まで雹次がいたところを何かが通った気配があった。
私は目白の目ではっと男を見ると、男の手には傀儡子が出現していた。
「なんだぁ。坊ちゃんはついてるねぇ」
男はにやにやと笑った。
傀儡子人形の指先をよく見ると、その爪には仕込み刃が嵌め込んであった。私が引っ張らなければ、雹次の首は切られていた。
私はこの状況をどう切り抜けるかを考え始めた。頭をフル回転させようとした。しかし、雹次は違った。
「ゴラァァ」
雹次はいきなり怒鳴ると僧装の男を蹴った。
私があっと思う前に、男は傀儡子を持ったまま吹き飛ばされた。蹴られた胸を押さえて通りに転がった。男は何か上手い回転で勢いを殺したらしく、地面に吸い付くようにして雹次の方を向いた。
「特殊歩法かい?」
男は苦い顔に笑みを混ぜ込んでいた。
雹次は答えない。
男を蹴ったことに一番驚いているのは雹次らしかった。
「危ない子だねぇ」
突然後ろで声がした。
私は目白の目で自分の背後を確認した。
そこには今雹次が蹴った僧装の傀儡子使いと同じ背格好、同じ服装の男が立っていた。
「雹次ッ! 後ろにも!」
私は小さく叫んだ。飛び退いて土塀に背をつけた。
雹次は我に返って、男二人が視界に収まるように横向きになった。
「ヒョウジってぇのかぃ。お前才能があるよ」
蹴られた男が立ち上がりニヤついた。
「ああ、右近の買い被りがまた出たよぅ」
後ろから来た男がため息をついた。
「そんなことはないさ、左近。この坊主は光る物があるよ。原石だねぇ」
「またぁ、そんなこと言っちゃぁイヤだよぅ。わたしがこの子を殺しちゃうよ」
「いやいや、駄目だねぇ。原石は育てなきゃねぇ」
左近と呼ばれた男はぐにゃりと顔を歪めて、
「原石ならアレにも耐えられるだろうねぇ。試してあげようかぃ?」
「ああ、いいとも。試してみたらいい」
右近がそう答えると、左近は右近の元へすたすたと近寄った。まるで私たちなど存在しないかのようだった。
そして、左近は右近の背後にぴたりと張り付いた。背後で右近の裳付衣を自分の体に覆いかぶせた。
帯で縛っている衣をどう被せたものかわからないが、とにかくそのようになった。つまり右近と左近とは二人羽織の形になった。
「「〈傀儡子闇芝居〉」」
二人同時に叫んだ。
すると、背後にいた左近の体がさっと消えて、そこには左近の黒い衣だけが残っていた。衣が右近の背中から生えて、それがぺらぺらと宙に揺れていた。
「おい、ガキ。お前はこれから死ぬよぅ」
左近らしき声が言った。
「なあ、ヒョウジ。お前ならできるよぅ」
右近らしき声も聞こえた。
一人の体に二人の人間がいる。
私は頭が混乱してきた。雹次も目を見開いていた。
突然の事態に混乱している私と雹次にはお構いなしに、右近の体は雹次に向かって突進した。ふっと低く体勢を落として、地面を這うようにして雹次へ迫った。
右近の体が雹次の目の前に到達すると、右近は突然上に伸びあがって宙返りをした。その脚に傀儡子の仕込みがしてあって、ギュンと脚が伸び、傀儡子の刃が雹次を襲った。
シュパァッ
右近の脚の傀儡子が伸びる時に小さな破裂音が聞こえた。
私は右近の速さ、傀儡子の奇妙さ、それに聞いたこともない音に体が硬直して動けなかった。
しかし、雹次は違っていた。右近の攻撃を急加速で躱した。
攻撃が見えていて躱したというより、その場から体を移動させたというだけだが、それでも右近の攻撃は人間が躱せるようなものではなかった。
攻撃を躱された右近の目が見開いた。それから笑った。
「何ッ!?」
「ほらなぁ。出来る奴だと思ったよぅ」
左近と右近はそれぞれに感情が違うので、二人羽織で一人になったらしい右近の顔はぐにゃぐにゃと歪んだ。
「これはいよいよ殺すしかないわねぇ」
「これはいよいよ連れて帰るしかないなぁ」
二人の喋り声は重なって聞こえた。
右近は次の攻撃、または捕縛の準備に入ったらしかった。
その右近へ向かって、
パンッ
何かが飛んで来た。それを右近は体を捻り紙一重で躱した。
地面に刺さったものを見ると、それは〈法印紙〉の貼り付いた小刀だった。込められた法印術が複雑で法印紙は耐え切れず燃えていた。
こんな複雑な法印術を法印紙一枚で再現できる人間がいることに私は驚いた。
右近は鬼の形相で地面に刺さった小刀を見ていた。
「唐木の紋じゃねぇか!」
「唐木十坐につけられていたかっ!」
右近と左近は顔を見合わせたようだった。
右近という一人の人間の中に二人が入っているのだが、そういう気配が感じられた。
私は右近の言葉を聞いてもう一度小刀を見た。
確かに刃の付け根に何かの紋が刻んである。丸印に中に三本の線が支え合うような形で記されていた。
右近は辺りを見渡して、
「唐木十坐ぁ! お前のところにも行こうと思ってたのによぅ!」
「これで私たちを敵に回したわねぇ!」
右近は二人で叫んだ。
それから右近は雹次を睨んで、すぐに何か決心したようで、さっと跳躍した。土塀を蹴って屋根の上を走り去った。
右近は一人の人間のままで、背中から生えた黒い衣がぺらぺらと宙に揺れているのが奇妙だった。
私と雹次は右近と左近が去った後もその場に動けなかった。
おかしなことが起こり過ぎて、まだ現実に焦点を合わせられなかった。
小刀を飛ばした存在がいるので、そちらの警戒もしていた。しかし、警戒してはいても、あんなに高度の法印術を使う存在を相手に私たちが何かできるとは思えなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。雹次が口を開いた。
「いい加減、帰ろうぜ」
私はもう一度辺りの気配を探った。何も感じられないことを確かめて、
「そうね」
疲労の混じった声で答えた。