耳の聞こえない風俗嬢
「耳が聞こえない?」
佐藤が訊ねると、小柄な女性が携帯用のホワイトボードに「そうです」と書いた後、「読唇で多少はわかります」と続けた。
そこは佐藤が店長を務めるファッションヘルス店の事務室だった。広さは六畳ほどで、パソコンを置いたデスクと椅子、打ち合わせ用の四人掛けのテーブルが置いてある。
佐藤の前には、二十代半ばぐらいの若い娘がパイプ椅子にちょこんと腰掛けていた。履歴書には26歳と書かれていたが、童顔なので大学生ぐらいに見える。
女がホワイトボードに字を綴った。
『しゃべることもできません』
それは佐藤も知っていた。先天性難聴の人間は人の声を聞いたことがないので発話の仕方がわからないのだ。
うーん、と佐藤は首をひねった。
「ウチの仕事、わかってるよねえ?」
ファッションヘルスに挿入行為はないが、それ以外の口や手、素股を使ったプレイはある。客とのコミュニケーションも当然、必要だった。
女がコクリとうなずき、佐藤は困ったように息をつき、ふと何かを思いついたように顔をテーブルの方に向ける。
眼鏡をかけた二十代半ばぐらいの男が、弁当をつつきながらスマホを見ていた。
「な、障がい者を雇うと、雇用助成金がもらえるんだっけ?」
スマホに目を落としたまま、若い男は言った。
「いや無理っしょ。ウチ、風俗店ですよ」
竹田は大卒でウチに応募をしてきた変わり種だ。大卒だけあって物知りで、パソコンの設定や操作、HPの更新などでは助けられている。
半ば予想していた答えだったので、佐藤は、だよな、とうなずいた。
「障がい者を雇ったってウチにメリットもないよなー。だいたい耳が聞こえない上にしゃべれないのに、どうやって客とやり取りするんだよ」
相手が聞こえないのをいいことに物言いに遠慮がない。竹田が箸を止め、スマホから顔を上げた。
「筆談でやればいいんじゃないですか?」
「筆談?」
「して欲しいプレイを客に事前に書いてもらうんですよ。ほら、ラーメン屋でもあるじゃないですか。注文前に用紙にカタ麵、チャーシュー何枚とか書くやつ」
「ウチはラーメン屋じゃないぞ」
「似たようなもんですよ。カタ麵とチャーシュー三枚が、手コキとパイズリに変わるだけで。客が嬢にされたいプレイを、言葉じゃなくてシートに書いて渡せばいいんです」
「紙にねえ……」
「逆にウケるんじゃないですか。このコ、童顔で小柄だから、その手の客が指名してきますよ」
読唇で会話がある程度わかるのか、女がにっこり笑った。たしかにあどけない見た目だった。この手の妹キャラが好きな客は風俗には多い。
「……まあ、試しに雇ってみるか。ネットで話題になるかもしれないしな」
女の子がボードに「ありがとうございます!」と書き、頭を下げた。その後、佐藤は出勤形態や給料のシステムなど、事務的なことを説明し、最後に言った。
「じゃあ、源氏名を決めるか。源・氏・名――わかる?」
女がコクリとうなずき、ボードに「店長さんにお任せします」と書いた。履歴書を見ながら佐藤が首をひねる。
「そうだなぁ……耳が聞こえないんだよな。なんかいつも静かそうだし……じゃあ、静香にするか」
安易なネーミングだったが、本人は気に入ったようだ。こうしてヘルス店に耳の聞こえない風俗嬢〝静香〟が誕生した。
◇
「じゃあ、静香さん、3番でよろしくお願いしまーす」
客と手をつなぐ静香を佐藤は笑顔で送り出した。シャワー室に向かうミニスリップ姿の背中を頼もしく見送る。
彼女が店でヘルス嬢として働き始めて一ヶ月が経っていた。最初はどうなることかと思ったが、今では店になじんでいた。
事前にお客さんには「あのコ、耳が聞こえないし、しゃべれないんですけど、いいいですか?」と確認をとり、その上で客が嬢に希望するプレイを用紙に書いてもらった。
意外なことに、このやり方は客にウケた。だいたい風俗に来るような男は、女性とコミュニケーションをとるのが苦手だ。口下手な彼らからすれば、メモで希望を伝えるのは楽なのだろう。
童顔でロリ体型、妹っぽい容姿は、耳が聞こえず、しゃべれないというキャラと相性が良かった(男の保護欲をそそるのだろう)。あっという間に静香は店の人気嬢になった。
その日、佐藤が事務机で本を読んでいると、従業員の竹田が覗き込んできた。
「店長、どうしたんですか。本なんて読んで」
開いた本の章見出しには「手話の基本」と書かれ、ハンドサインをする人のイラストが載っていた。
眉を持ち上げる部下に佐藤は弁解する。
「まあ、静香と仕事の話をするとき、簡単な手話ぐらいできた方がいいと思ってな」
今は彼女の読唇とメッセージボードに頼っているが、もっと円滑なやり取りができるならそれに超したことはない。
「へえー、手話ですか」
竹田はどこか揶揄するような目だ。無理もない。なにせ自分は高校中退で、普段、スポーツ新聞しか読まないのだから。
「ま、今やウチの人気嬢だからな。こっちも気を遣ってやらないと」
照れ隠しのように言ったが、半ば本音だった。店長という立場上、稼げる嬢の存在はデカい。
「まあ、でもいいコですよね、静香ちゃん。他の嬢たちにも可愛がられてるし……」
前は待機所で嬢同士での喧嘩や盗難もあったが、彼女が来てから店の雰囲気がおだやかになった。うまく言えないが、互いを思いやる気持ちが生まれた気がする。
静香には少しでも長く働いて欲しい、と佐藤は思った。
◇
その日、事務室でパソコンに売り上げを打ち込んでいた佐藤は、外の騒々しい気配にマウスを動かす手を止めた。椅子から腰を上げ、部屋を出る。
ヘルス店の接客スペースは、個室タイプの漫画喫茶に似ている。細い廊下の両側にドアが並び、中には三畳程度の小部屋がある。そこで嬢が客にサービスをするのだ。
ドアの一つが開いていた。部屋の中を覗き込むと、ベッドの隅で静香がおびえたようにうずくまっている。
客と思しき四十代ぐらいの中年男が、トランクスだけの姿で憮然とベッドに腰を落とし、それを竹田が険しい顔で睨み付けている。
「どうした?」
佐藤が訊ねると、竹田が中年男を怒りの形相で指さす。
「こいつ、静香と無理やりやろうとしたんですよ」
ヘルス店ではたまにある話だった。客が嬢に本番を強要するのだ。店にバラさないから、と金銭で持ちかける客もいる。
この男性客は、静香が耳が聞こえず、しゃべれないのにつけ込み、無理やり挿入しようとしたらしい。隣の個室でプレイをしていた別の嬢が異変に気づき、竹田を呼んで事件が発覚した。
佐藤が壁の貼り紙を指さし、落ち着いた声で言った。
「お客さん、この貼り紙に書いてありますよね? 嬢にそういうことをしたら罰金100万円って」
100万円と聞き、中年男の顔色が変わった。
「この女が自分から持ちかけてきたんだ! もう1万出せばヤラせてもいいって。本当だ。嘘つきはこの女だ」
早口で怒鳴るような口調だったので静香も読唇できなかったのだろう。何を言われているかわからず、ベッドの隅から不安な目で佐藤を見つめ返してくる。
「わかりました。事情は事務所の方でゆっくり伺わせていただきます。とりあえず服を着て、外に出てもらえますか?」
佐藤は客に部屋をいったん出るように促す。自己保身の嘘だとはわかっていたが、周りの個室には他の客もいる。これ以上、騒ぎを大きくしたくない。
結局、未遂に終わったこともあり、客には厳重注意をした上で店から帰した。もちろん今後は出禁である。
静香のショックは大きかった。翌日から店に出勤しなくなり、メッセンジャーで連絡しても、しばらく休ませてください、と返事があったきり、音沙汰がなくなった。
◇
その日、佐藤は事務室でパソコンに向かっていた。公式サイトの嬢たちの出勤状況を更新しながら、静香の画像を見つめる。
(もう辞めちまうのかな……)
そうやって引退していく嬢を何人も見てきた。引き留めることはない。一人の嬢に深くかかわっていたら、この仕事は続けられない。
事務室のドアが開き、竹田が顔をのぞかせる。
「あの……店長、お客さんが来ているんですけど……静香ちゃんを指名したいって……」
またか、と思った。彼女は人気嬢だったので、いまだに指名客が引きも切らない。だが、こちらもホームページに嬢の出勤状況は事前に表示している。
「優奈をあてがっておけよ」
静香目当てで来た客には、彼女と似た童顔で小柄な嬢を代わりに薦めていた。にしても、なぜ竹田はそんなことをいちいち報告してくるのか。
苛立ちが顔に出たのだろう、竹田があわてたように言った。
「いえ、それが――」
困ったような竹田の表情を見て思った。もしかすると、暴力団関係者や半グレといった厄介な客かもしれない。
竹田の手に負えないとなると、そうとう面倒なやつだろう。今行くよ、と佐藤はため息まじりに言い、椅子から重い腰を上げた。
◇
その夜、佐藤はスマホの地図を頼りに住宅街を歩いていた。けっこう築年数がいった古めかしい二階建てアパートの前で足を止める。
(ここか……)
部屋は一階のいちばん端だった。ストーカーなどを警戒する風俗嬢は、オートロック付きのマンションの上階に住みたがる。住まいを見るだけでも、静香のつつましい暮らしぶりが窺われた。
ピンポーンと呼び鈴を鳴らした後、佐藤は気づいた。
(そっか。耳が聞こえないのか……)
呼び鈴には気づかないだろう。悩んでいるとドアのロックが外れる音がした。扉が少しだけ開き、チェーン越しに静香の顔が見えた。
宅配便だとでも思っていたのか、佐藤の姿を見てびっくりしている。とっさに佐藤が手を動かして、覚え立ての手話で伝えた。
――呼び鈴の音、聞こえるの?
静香は驚いた顔をしたが、手話で返してきた。
――明かりで気づくようにしてるんです。
背後をちらっと振り返る。冷蔵庫の上で赤い点滅灯(パトカーの屋根についてるようなやつ)が回っていた。呼び鈴と連動させているのだろう。
静香がチェーンを外し、ドアを開けた。佐藤は手で制し、「あ、いや、俺はここでいいよ。すぐに帰るから」ととっさに声に出した。一人暮らしの若い女の子の部屋にオッサンが入るわけにはいかない。
それから再び手話で伝えた。
――店に来ないの?
静香の顔が曇る。客に襲われたショックが消えていないのだ。密室で体格の大きな男に組み伏せられた恐怖は女性でなければわからない。
――君を指名したいって言ってる客がいるんだ。
静香が顔をうつむかせた。佐藤は手話で「どうしても嫌ならしかたないけど――」と断った上で告げた。
――君に来てほしいんだ。
その客は静香が出勤する、しないにかかわらず明日も来ると言っていた。佐藤は客が来る時間を告げ、その場を後にした。
◇
翌日、佐藤は事務室で壁の時計を見ていた。すでに客は来ていて、待機所のソファで待ってもらっている。
ドアが開き、竹田が顔を覗かせ「静香ちゃん、来ました!」と声を弾ませる。佐藤は椅子から立ち、部屋を飛び出した。
静香が外に立っていた。ぺこりとお辞儀をする。
「ちょっと来てもらえるか?」
静香の手を引き、客用の待合スペースに連れていく。
ソファに静香と同い年ぐらいの若い男が座っていた。ジーパンにポロシャツという素朴な風体だ。
佐藤たちに気づき、青年がスマホから顔を上げる。
つたない手話を使い、佐藤が「彼女が静香です」と伝えた。それを見た嬢の目が大きく開かれる。
佐藤が今度は静香に向かって手話で伝えた。
――彼も耳が聞こえないそうだ。
耳が聞えないヘルス嬢の噂をネットで知り、彼女のサービスを受けたいと、遠くからこの店を訪れたという。
――彼の接客を君に頼めないかな?
静香が一瞬、虚を突かれた表情になり、やがて目に涙を浮かべ、大きくうなずいた。
青年にプレイ希望のシートを渡そうとする竹田の手を制し、代わりに手話で「シャワーを浴びに行きましょうか」と伝える。
手をつないで部屋に消えていく耳の聞こえない嬢の背中に、佐藤は、がんばれよ、とエールを送った。
ここには君の居場所がある。君にしかできない仕事がある――
(完)