本編
「あ~……ホントあちーっ! だりぃーっ!」
夏場の朝、駅から飛び出した学生が叫んだ。
時期は既に夏休み。普通の生徒なら学び舎に行く用事はない。運動部や、積極的な文芸部なら話は別だが、彼はどちらにも属していなかった。
「おい高橋! 叫んでも涼しくなんねーぞ」
「うるせぇ叫ばずにいられるか! テスト前に戻りてぇ~っ!」
「何だよお前赤点かぁ?」
「しゃーらーっぷ!」
マウント気味に煽ってくる佐藤へ、高橋は吼えて指を立てた。
彼が登校する理由は、成績下位者に贈られる招待状……補講授業の呼び出しによるものだ。夏休みに入っても早起きを余儀なくされ、クソ暑い真夏日にやりたくもない勉強を義務付けられる。叫ぶ彼へ注がれる同級生の目線は、哀れみに満ちた物が多い。けれど同じ立場の同士は、彼の嘆きに共感して肩を落とした。
補講担当の教師が睨む中、一人の生徒が声をかけてくる。
「おはよう。元気だね」
「おーおはよー……って村上? お前運動部だっけ?」
「ううん、補講組。高橋君の仲間だよ」
眼鏡をかけたインテリ風味の生徒に、高橋は驚愕した。
「お前日本史満点だったじゃん……」
「いやぁ……英語が一桁で……」
「落差が酷すぎる!?」
困ったように笑う村上は、バス停へ歩く生徒たちと別の進路を取った。
「それじゃ、ぼくは歩いていくから。また学校で」
「お、おぅ」
最寄駅から送迎バスで十分。その場所に彼らの学び舎は存在する。一応徒歩でも通えるが、何もこんな日に歩かなくてもいいだろうに。
「ああ、アイツは歩くの趣味らしいぜ」
「ジジイかよ!?」
「んで、ふらーっと店入って眺めるのが好きらしい」
「やっぱりジジイだよな!?」
クラスメイトの大沢が、面白おかしく村上の話をべらべら語った。
「いやいや意外と助かるぞ。この前天丼五百円で食える店、教えてくれたし」
「お得な口コミ情報!? で、味は?」
「結構美味い店だったぞ。ちょっと高くなるが、かつ丼もイケる店らしい」
「後で詳細プリーズ!」
苦笑交じりに男子生徒が「おぅ、後でな」と返事を寄越す。止まっていたバスが動き始め、エンジンを低く響かせた。信号待ちをする村上を置き去りにして、生徒で一杯になったバスが街中を進む。
「はぁ~っ……テンション下がるわ~」
「愚痴ってもしょうがないじゃん。適当に済まそ?」
「長瀬は気楽でいいな……」
明らかに気のない女生徒は、開き直っているのかさほど苦にしていない。
「ほらほら、降りよ? 学校着いたし」
「へーへいー……」
バスから降車すると、猛烈な直射日光が肌を焼く。コンクリートが照り返しを浴びせ、クーラー慣れした肉体を焼き焦がした。
「あああぁああぁぁぁあ! 熱い熱い!」
「教室に急げー!」
各々悲鳴を上げて、室内のオアシス目指して動く。その後待ち受けるのがクソほど退屈な授業でも、このまま立ちつくすよりマシだった。
汗を額にかく生徒たちが、楽園にたどり着く。ハンカチを取り出し、あるいは水筒に口をつけ、熱波に痛めつけられた身体を癒した。
「ひぃぃっ~……ほんと地獄だよぉ……」
「東山……すげぇ汗だな……」
ぽっちゃり女生徒が過剰に流す汗をぬぐい、疲労で満杯の表情を作っていた。
「……帰りの時、大丈夫か?」
「死ぬかもしれない!」
「諦めるなよ……諦めんなよ!」
炎の妖精の言葉を借りて励ますも、むしろ逆効果になったのか、ぐったりと突っ伏した。
「み、水……」
「東山ーっ! 生きろーっ!!」
補講が終わるのはちょうど昼過ぎ。太陽が一番高い時間帯だ。今より暑い外の空気を想像すると気が沈む。二か月前の自分を殴りたい気分だった。
程なくして、補講担当の教師が扉を開く。今日の担当は理科の若林先生のようだ。
「おーし……出席取るぞー……」
あからさまにやる気のない声で、虚ろな目線で一人ひとり名前を呼ぶ。気力のない声に呼応して、生徒たちもだるそうな声で答えた。
「高橋ー……」
「はーい……」
ぐったり突っ伏したまま返事をする。露骨すぎる態度だが、若林は注意せずに次々生徒を呼んだ。
「村上ー……村上ー?」
返事はない、ただの屍のように机に生徒たちは倒れている。何度か声をかけ、周囲を見渡しても村上の姿はなかった。
「あー……サボリかー?」
「いや確か……駅の前にいましたよー……」
「本当かー……?」
「俺も見ました。間違いないです。確か教師の誰かにも挨拶してたような……」
「んー……? 遅刻か……? とりあえずペケしとくかー……」
高橋と大沢以外にも、何人かの生徒は村上の姿を見ているようだ。時間にも余裕があったと思うが、どうしたのだろう?
「村上君、サボり?」
「どうだろ?」
「いやいやないだろ。駅前まで来て『やっぱサボろ』って帰るかフツー?」
「じゃあなんで……散歩に夢中なの?」
「それも妙だな。この辺りは歩き尽したって言ってたぜ。やるにしても下校の時じゃないか?」
話題を呼んだ村上は、結局最後まで補講に出てこなかった。簡素なホームルームを開いた時に、若林教師も首を傾げる。
「村上は来なかったなー……」
「どうしたんだ……? 間違いなく居たと思うんですけど」
「他の先生にも確認取ったがなー……辻本先生が、確かに村上を見たらしい。駅に居たのは間違いなさそうだなー……」
「……まさか、熱中症?」
「かもしれないなー……でも高橋は気にしなくていいぞー……こっちで確認するからなー……」
「お願いします」
さほど仲は良くないが、あからさまに不穏な空気があれば心配もする。とりあえずはその日、高橋は帰宅した。
翌日――同じ時間、同じ駅前で、やはり村上はやって来ていた。
「おい、村上! 昨日はどうして登校しなかったんだよ?」
「いやぁ……なんでだろうねー?」
「なんでだろうって……お前のことだろうが! 今日は来いよ!」
「はいはい」
すっとぼけてた村上らしい反応で、適当に聞き流すソイツに腹を立てる。気がかりのせいで勉学に身が入らなかった……とは言わないが、気が逸れることは事実だった。
なのにやはり、村上は教室にやってこない。
朝方は間違いなく駅にいる。生徒も教師もそれを目撃しているのに、なぜか補講授業には出てこない……結局二週間にわたる補講期間で、一度も村上は出席しなかった。
(ったく、なんだんだ? おちょくってるのか?)
こちらの心配をよそに、朝方出会う村上はマイペースに笑うだけだった。しかも教室に来ない理由を問い詰めても、はぐらかすばかりでちっとも明かしはしない。教師陣もおかんむりで、彼は他のサボった生徒よりも責められるだろう。
「おはよー」
「あっ! 村上っ!!」
二学期の初め、いつも通りに挨拶する生徒へ、高橋は剣呑な声を上げた。
「てめぇ、補講全部さぼりやがって!」
「あははー」
「あははじゃねぇよ! ったく、毎朝ここに来てるくせに……」
「ははは……えっ?」
急に村上の言葉がつまる。苛立ちをぶつけるように、高橋が大声で責めた。
「えっ? とか、そういうリアクションいいから。朝方俺らを見送りに来たんですか? こっちは熱中症で倒れてるんじゃないかって、若林も心配してたんですけど?」
「……ごめん、何の話?」
血管をぷっつんさせて、どこまでもマヌケ面を晒すクラスメイトに叫ぶ。
「だ~か~ら~! ちゃんと駅には来てんのに、どうして補講はさぼったんですかって聞いてんだよ!」
「………………えっ?」
凍りつく村上。顔を青くし、酸欠の金魚の如く口をぱくぱくさせた。目を泳がせ、混乱に見舞われながら、彼が告げる。
「どういうこと……? だってぼくは一度も、この駅に降りてないのに……?」
「は? は? はぁ!?」
怒りで頭に血の上った高橋は信じない。村上は本気で怯えているようだが、一顧だにせず続けた。
「んな嘘つくなよ! 他の連中も見てるんだぞ!?」
「いやだって……訳が分からない。本当に?」
「…………はぁ~~~~っ。もういいわ。担任にがっつり叱られてろ」
「それは覚悟してる。サボったし」
「……」
あくまで認める気がないらしい。変なヤツだとは思っていたが、これには高橋も呆れ果てた。教室に到着し、補講に出席した生徒が似たような質問を殺到させる。その度に村上は疲れたような、どこか怯えたような様子さえ見せ始めた。
そんな反応するなら、正直に認めてしまえばいいのに。鼻息一つ鳴らして、遠巻きにその光景を眺める。やがて若林先生も同じ質問を重ねたところで、村上はこう言った。
「……わかりました。証拠を見せます」
「証拠ー……?」
「ちょっと待っててください」
大沢や長瀬も、彼の動作を注意深く見守る。スマホを取り出しつつ、何故か財布から一枚のカードも引き抜いた。
「何してるの? それJRのICカード?」
「うん。いつも使ってるやつ。ID番号覚えてなくて……サイトも使ってないから手間取るけど……」
現代において、改札口の通るのに切符を使うことは減った。あらかじめ入金したICカードをかざすだけで、自動で差額を引き落としてくれる。人によってはスマホにアプリを組み込んだり、定期券もICカード化が進んでいた。
「……これが証拠」
村上が表示したサイトは、最寄駅を運営する電車サイト。そこには日付と時間がいくつも羅列されていた。
「これは何だー……村上ー……?」
「このICカードの、乗降履歴です」
「どーいうこった?」
高橋が首を傾げる。村上は暗鬱な表情で答えた。
「ICカードで電車を利用すると『いつどこの駅で乗り降りしたか』の記録が、コンピューターに残るんだ。パスワードとIDを入れれば、色んな情報を確かめられる。みんなには夏休み期間中の所を、しっかり確認して欲しい」
表示される日時の隣に、様々な駅名がある。問題の時期……補講期間中の二週間は、学校最寄りの駅に降りた記録がない……
「……嘘でしょ?」
「じゃ、じゃあ実際何やってたんだよ、村上! 家にいたのか!?」
「履歴を見て欲しい。いろんな駅で降りてるでしょ? ぶらり途中下車の旅をしてたんだ」
「ジジイかよ!?」
補講期間中の履歴には、確かにいくつかの駅名がある。乗った時間、降りた時間も克明に記されていた。そのデータの記録が証明するのだ。『村上は一度も、補講の日に駅には来ていない』と。
しかしー……それを見てもなお、納得できない。いや、納得したくない。
「でも……いたよね? 駅前に……」
「あぁ、居た。間違いなくいた。あれは村上だった」
「うんうん」
教師も、生徒も、この展開は想像もしていない。
何故なら――毎朝駅前で会った『村上』は、誰がどう見ても『村上』だったから。
ちょっとだらしのない服装も、どこか間の抜けた口調も、持ち物からほんの小さな所作まで、疑うまでもなく『村上』そのものだった。クソ暑い夏日に歩いて登校するのも、間違いなく村上らしい行動だ。
けど、だからこそ。今ここにいる村上の言葉も真実味を帯びる。
サボりを兼ねた途中下車と散歩は……それはそれで村上らしい行動だった。何よりICカード履歴の証拠は、誰が見ても村上が駅前に居なかった証拠といえる。
ならば――
ならば、毎日
夏休みの補講の日、生徒も教師も目撃した
村上そのもとしか思えなかった――あの村上は誰だったのだ?