お年賀話:精霊蜜を求めて
そろそろ一年の仕事を納めようかというころ。
黒魔術師クロムは、白魔術師スノウとアイビーと共に、王宮の職員食堂で昼食を取っていた。
普段は夫のスノウとふたりで食べているが、こうして気まぐれにアイビーが加わることもある。アイビーはスノウだけでなくクロムの友人でもあるので、もちろんいつだって歓迎している。
三人がひと通り食べ終わって食後のお茶を楽しんでいたところで、アイビーがそういえばと口を開いた。
「ねえ、スノウ。明日か明後日くらい、時間ある? よければ、精霊蜜を探しに前時代の魔術書へ降りるのに付き合ってほしいのだけど」
「………………」
「そうなんだよ。ちょっと実験に借りたら、思いのほか消費したみたいで。師長が泣いちゃってね」
「………………」
「まあ、さすがに悪いかなと思ったから、今年のうちに補充しておこうと」
「…………明日なら」
「うん。じゃあ、明日よろしく」
白魔術師ふたりの会話を大人しく聞いていたが、ついにクロムはうずうずが抑えられなくなった。
「あの、それ……私も同行できませんか?」
前時代の魔術書に降りるということは、そこは前時代の遺跡だ。キナバル赴任中に何度か降りたことがあるが、どれもこれも魔術的にとても興味深い経験だった。
黒魔術師にとって、知識が増えるのは楽しみでしかない。
特に、精霊の力を借りて魔術を扱う白魔術師と違って、黒魔術師は精霊と縁がない。その精霊が大変好むという精霊蜜は未知の領域であり、知らないものは知りたくなるのが黒魔術師の性だ。
幸いにして、残っている仕事は来年に回せないこともない。
上司の黒魔術師長もクロムの同類だから、前時代の遺跡に降りたいからだと言えば許可してくれるだろう。
もしも白魔術師長に反対されるようなら、上司にお願いしよう。白の師長は、なにやらクロムの上司には弱いのだ。
と、クロムが頭の中であれこれ算段を立ててふたりを見つめれば。
「いいね、是非おいでよ!」
「…………」
アイビーは諸手を挙げて賛成し、スノウも無言で首を縦に振ってくれた。
翌日。
白魔術師棟の作業部屋でクロムを待っていたのは、前時代の魔術師による旅行記だった。
用意したアイビーによると、この古書はもともとただの旅行記であったのが、著者の魔術師があまりにも不思議な場所ばかりを旅するものだから、記述が増えるに従い徐々に魔力を帯びてしまったものらしい。
書かれている場所は今はもう存在しない前時代の遺跡ばかりで、アイビーとスノウは今までも何度か、精霊蜜を探して降りたことがあるのだとか。
さっそく降りようかと準備を始めるアイビーに、クロムはきょろきょろと辺りを見回して首を傾げた。
「あれ、誰か待機する魔術師は?」
前時代の魔術書に降りる場合、外で別の魔術師が待機するのが通常の手順であるはずだ。万が一のとき、魔術書に取り込まれてしまわないよう、繋いだ魔術回線で引っ張り上げてもらうために。
だが、アイビーは軽く笑って言った。
「ああ、いないよ。今回は突発的なことだし、誰も付き合える魔術師がいなくてね。代わりに、ここには居ないけどうちの師長と繋げてあるから問題はないよ」
「そうですか……」
どうも慣れているような口ぶりだったので、もしかしたらアイビーとスノウは、普段からこうしてふたりだけで勝手に魔術書へ降りているのかもしれない。
ちらりとスノウをうかがえば、すっと目を逸らされた。
(白魔術師って、本当に自由なひとたちだな…………)
白魔術師長の苦労が偲ばれて、クロムは心の中でそっと手を合わせておいた。
そうして三人で降り立った場所は、見渡すかぎりの広い草原だった。
あちらこちらに、草を食む魔獣や無邪気に駆け回る小さな魔獣たちの姿があり、牧歌的な空気が漂う。
空は気持ちがいいほどに晴れ渡り、吹き抜ける風がさわさわと草木を揺らす。少し行った先にはきらきらと輝く湖があるし、その向こうには頂上を緑に覆われた岩山が見える。
「なんというか、とても長閑な場所ですね」
からりと乾いた風が頬を撫でるのに目を細め、クロムが呟く。
「うん。この魔術書の著者が生きた大陸は、陽の当たる場所はとても平和な世界だったみたいだね」
「陽の当たる、場所?」
どういう意味だろうかとアイビーを振り返ろうとしたとき、足に何か柔らかいものが触れた。
「きゅっ」
足下で、毛足の長い小さな魔獣がこちらを見上げていた。
魔獣とはいえ、悪い気配は感じない。ぴんと立った長い耳をぴくぴく動かし、こちらに興味津々といった様子だ。
「なあに? 人間が珍しいの?」
しゃがんで頭を撫でてやれば、もっととねだるように体を押しつけてきた。
その様子を見ていたらしい他の魔獣たちが、我も我もとだんごになって集まる。
クロムだけでなく、スノウやアイビーにも魔獣はわらわらと押し寄せた。ずいぶんと人懐っこい。
「あら、むしろ人間に慣れてます?」
「ここの魔獣は人間たちと親しかったのかもしれないね」
「……でも、そのわりには人間の姿がありませんね」
これだけ見晴らしの良い場所なのに、人家のようなものはひとつも見当たらない。
「うん。どうも著者は、人間があまり好きではなかったようだよ。記述の中に、自身以外の人間は登場しないから」
魔獣はたくさん登場するけれどね、と笑うアイビーに、そういう人間が書いたものはいかにも妙な力を持ってしまいそうだなあと、クロムは納得した。
名残り惜しげな魔獣たちに別れを告げ、三人は目的のものを求めて歩き出す。
「こっちの方向に、精霊蜜の気配があるね」
岩山の方を示すアイビーには、精霊蜜の場所が分かるらしい。
なぜかと問えば、好物に敏感な精霊が教えてくれるのだと答えが返ってきた。なるほど。
アイビーを先頭に岩山の前まで来てみれば、そこにはぽっかりと口を開けた洞窟があった。内部は暗く、のぞいただけでは中の様子は分からない。
アイビーが魔術で明かりを灯し、かろうじて入り口付近だけが視認できた。
「クロム。ここからは陽の当たらない場所だから、少し気をつけてね」
その言葉のとおり、洞窟の中は外の世界とはまるで違っていた。
太陽の加護であふれていたあたたかい草原とは一線を画し、ひんやりとした空気が漂っている。洞窟内ではアイビーが灯した明かりがなければ数歩先も見えず、また背後もすぐに暗闇に戻る。
加えて、外の世界にあれほどいた魔獣たちの姿が一切見えなかった。
(なるほど、これが、陽の当らない場所…………)
もしかすると、洞窟内には何か力のある魔獣が棲んでいるのかもしれない。
そう思い至り、気温だけでない寒さにふるりと震えたクロムの背中に、そっと添えられる手があった。
「スノウさん」
「………………」
背中から伝わるぬくもりが、じんわりと体へ広がっていく。
守りの魔術をかけてくれているらしい。
「ふふっ。ありがとうございます。暖かいです」
クロムが微笑めば、黄緑の瞳が嬉しそうに細まった。
ああ、大事にされているなあと、これまでに何度も感じたことを再び噛みしめた。
しばらく進んでいくと、急に開けた場所へ出た。壁や足下には光る苔が自生していて、全体をぼんやりと明るく照らしている。
これなら明かりは不要と判断したアイビーが、手に灯していた光を消した。
「ここ、かな」
「ああ」
白魔術師のふたりは、ここに精霊蜜があると確信を持って頷いた。
もちろん、精霊に縁のない黒魔術師にはまったく感じられないが。
ただ、クロムには他に感じられるものがあった。
「なんとなく、嫌な気配がありますね」
「うん。あまり良くないものがいるみたいだ」
「…………」
慎重に奥へ進むと、洞窟の天井から、つらら状の大きな突起が垂れ下がっているのが見えた。そこから、ぴちょん、ぴちょんと黄金色の液体が流れ落ちている。
その下の窪みには、とろりと溜まった黄金色。きっとあれが精霊蜜に違いない。
問題は、その窪みの前に大きな黒い背中があることだ。
「魔獣……?」
「そのようだね」
「…………」
その気配は、先ほど洞窟の外で戯れた人懐っこい魔獣たちとはどうも違う。あまり友好的ではなさそうだ。
立ち上がればおそらくクロムたちよりも大きいであろう黒の魔獣は、窪みに顔をつけて精霊蜜をがぶがぶと飲んでいる。
「うわあ、飲みつくされそう……」
「うーん、困ったな」
「…………」
どうしようかと一瞬だけ悩んだ素振りを見せたアイビーが、ぽん、と手を打った。
「よし。排除してしまおう」
「まあ、そうですよね」
精霊蜜を求めて来たのだから、同じ獲物を狙う相手は排除するしかない。黒の魔獣には申し訳ないが仕方がないことだ。
「ねえ、クロム。せっかくだからさ、白魔術と黒魔術の合わせ技をやろうよ」
「わ、面白そうですね」
「でしょう? クロムとならうまく合わせられると思うんだ」
「アイビーさんも器用ですしね。では、討伐までせずとも、どこか別の場所に飛ばすくらいでいいでしょうか」
「そうだね、無駄な殺生をすることはない。じゃあわたしが、……え? ああ、スノウがやりたいの?」
クロムたちが盛り上がっていると、スノウがアイビーの袖を引いて、自分がやりたいと主張してきた。
「うーん、本当はわたしがやってみたいけれど…………まあいいか。今回はわたしがお願いして誘ったしね、ここは譲ろうか。じゃあふたりでさ、」
相談の結果、黒魔術で魔獣の動きを縛り、白魔術で他の場所へ飛ばそうということになった。
魔獣の動きを縛るよりも、遠くへ飛ばす方がずっと魔力を使うが、今回は精霊蜜のために精霊がとても協力的だということで、そういう分担となった。
白魔術は、精霊の協力次第でその効果が左右されるものだ。だから状況によっては、白魔術師はとても楽に魔術を行使できる。こういうところが黒魔術師とは違っていて、面白い。
「じゃあ、スノウさん」
「……ああ」
黒の魔獣がこちらの存在に気づかないうちにと、さっそく作戦を開始する。
クロムは静かに左手を魔獣へ向け、魔術を編み上げていく。
第二指へ魔力を集約させ、標的を魔獣へ定める。
そこへ、そっとスノウの左手が重なった。
クロムと同じ、第二指に指輪が嵌められた左手。
「クロム」
「はい、スノウさん」
柔らかな黄緑の瞳が細められるのに、クロムは頷いた。
繋がった左手からお互いの魔力がぐるぐると混ざり合い、ふたつの魔術がひとつのものへと編み上がるのが分かる。
この魔術は、黒魔術だけでは出来上がらないもの。クロムとスノウ、ふたりで編み上げたものだ。そんなことが、なんとなくくすぐったかった。
そうして完成した魔術を目標へ向けて飛ばせば。
光の膜が黒い背中を覆い、そこでようやく事態に気づいて顔を上げた魔獣の動きを縛った。魔獣はうめき声を上げて抗う様子を見せたが拘束は解けず、やがてその体はきらきらと細かな粒子となって消えた。
「……ふう、無事に魔獣を排除できたようですね」
「ああ」
ほっと息を吐いて、クロムはスノウと顔を見合わせて微笑む。
すると興奮気味のアイビーが、頬を紅潮させて飛びついてきた。
「へえ、すごいねえ。術者の息が合うと、これほどきれいに混ざり合った魔術になるんだ!」
アイビーから見てもそうだったなら、ますます嬉しい。
「また次の機会があったら、わたしともやってみようね、クロム!」
「ふふっ。はい、そのときはよろしくお願いします」
「…………精霊蜜を、」
「あ、そうだったね」
スノウに促されて、アイビーは懐から容器を取り出した。
窪みから黄金色の液体を丁寧にすくい取り、しっかりと封をする。
あるだけすくい取ったものの、その収穫は容器の半分にも満たなかった。魔獣が遠慮なく飲んだおかげで、残りはすっかり少なくなっていたのだ。
「うーん、ちょっと少なめではあるけれど、きっと師長も納得してくれるよ」
「…………」
「…………」
果たしてアイビーが実験で消費したという精霊蜜は、どの程度の量だったのか。持参した容器いっぱいくらいには必要だと考えていたのではないのか。
だが、ここでその答えを知ったとしてもクロムにできることはないので、大人の作法として黙って微笑んでおいた。
ところで、魔術書の中と外では、時間の経過に差が出ることがある。
今回、クロムとしては降りている間の体感時間はおよそ半日ほどだった。そこは魔術的な空間だから、空腹も感じない。
おかげで気づけなかったのだが。
三人が魔術書から出たとき、すでに五日が経っていた。
「えっ、五日? ほんとうに?」
「は?」
「………………」
驚いて、お互いに顔を見合わせる。
五日経ったということは、それはつまり。
「年が明けちゃったねえ……」
「うわあ、魔術書の中で年越し……」
「………………」
しばし三人で呆然としていたが、最初に立ち直ったのはさすがのアイビーだった。
「……まあいいか。よく考えれば、ふたりと一緒に年越しができて楽しかったしね。うん。スノウ、クロム、今年もよろしく」
それじゃあまた仕事始めに、と笑ってアイビーはあっさりと去って行った。
その明るさと切り替えの早さに、クロムは目をぱちぱちと瞬いて見送っていたが、それでもなんとか気を取り直し。
ちらりと、スノウを見上げた。
「えっと、スノウさん。新年になっちゃったみたいです」
「そうだな」
「………………」
「………………」
「ひとまず、家に帰りましょうか」
「ああ」
クロムがそっと手を出せば、スノウがきゅっと握ってくれた。
「でも、……ふふっ。確かに楽しい年越しでしたね」
「…………」
「まあ……、ちょっと慌ただしかった、かな」
「…………」
「帰ったら、お茶でも飲んでゆっくりしましょう。今度はふたりで」
「ああ」
手を繋いで、クロムとスノウはふたり並んで帰路に就いた。
2023年のお年賀話でした。
今年もよろしくお願いいたします(^^)




