小話:「行ってらっしゃい」と「ただいま」の攻防
Twitterの小ネタから派生した小話です。
11話の最後の方でさらっと語られていた部分。
スノウが泊まっていくようになって、何度目かの朝。
クロムは出勤だが、スノウは休日なのでゆっくりしている。だから朝食も一緒に食べてから出て行く。
そういう朝はいつもクロムの部屋で簡単なものを出しているが、以前一度だけ、たまには気分を変えてと食堂へ行ってみたことがある。食堂の朝食メニューというものも、スノウは興味があるかと思ったのだ。
その時にたまたま出会ったアッシュが、クロムとスノウの姿を見て目を丸くした後に複雑そうな顔をして、ああ……と呟いたのはなぜだったのか。よく分からないが、少し気恥ずかしかった。隣のスノウは無表情だったが。
そういう事情もあって、今日も部屋で朝食を済ませた後、クロムはキナバル支部の通用門までスノウを見送りに向かった。
「クロム。今日も美味しかった、ありがとう。また来る」
「はい、お待ちしてますね」
そこでなんとなく、本当になんとなく、クロムは口にした。
「行ってらっしゃい」
するとスノウは目を見開いて固まった。
それからしばらく沈黙した後、ぎこちなく頷いた。
「…………行ってくる」
小さく呟いて王宮へ戻るスノウを見送ったところで、クロムはなんだか猛烈に恥ずかしくなった。
通用門の警備職員が興味津々の顔で見てくることもあって、即座にその場から逃げ出した。
なんとなく口に出してしまった挨拶だが、クロムは少しばかり後悔して、もう言わないでおこうと思ったのだった。
次にスノウが来たのは、翌日はお互いが出勤だという日だった。夕食を終えてしばらく時間を過ごした後にスノウが席を立ったので、クロムは部屋の扉まで見送りに行く。
朝の時間に別れる時は通用門まで見送るが、夜の時間である場合はクロムの部屋の扉で別れの挨拶をする。クロムが夜間に部屋から出ることをスノウが嫌がったので、そういうことになっている。
そしてクロムは、先日の出来事をすっかり忘れてしまっていた。
「それではスノウさん、また今度」
「ああ」
「…………」
「…………」
挨拶を終えても、なぜかスノウはクロムをじっと見て、扉に手をかけようとしない。
クロムは目を瞬いて、首を傾げた。
「……あの?」
「クロム、……」
ちょっと悲しそうに眉を下げたスノウの黄緑の瞳が、何かを訴えている。
むむむと唸ったクロムは、その訴えをなんとか読み解こうとした。おそらくまだ何かスノウが求めているものがあるのだと、手がかりを探すべく記憶をさらっていると、先日の出来事を思い出した。
もしかして。
「あ。……行ってらっしゃい、スノウさん」
「ああ、行ってくる」
ようやく正解を出したらしいクロムに、スノウは満足げに微笑んで、すいっと身を屈めて耳元に口を寄せた。
「今度からも、そう言って送り出してくれると嬉しい」
急に吐息を感じてびくりとしたクロムにくすりと笑い、ついでとばかりに音をたてて耳に口づけ、スノウは上機嫌で帰って行った。
そこで挨拶の一連の出来事は終わったと思っていたクロムだが。
スノウはさらに攻めてきた。
その日も我が家のごとく自然にやって来たスノウを、クロムが部屋の扉を開けて迎える。
「クロム、」
「スノウさん。いらっしゃい」
「……ただいま」
「!」
「…………」
「……、おかえりな、さい」
中に入って扉を閉めたところで、ややはにかんだような顔でただいまと言うスノウに、クロムはなんとか返事を返した。
たしかに、行ってらっしゃいと挨拶するようになったのだから、ただいまと言うのもおかしくはない。
おかしくはない、が。
これではまるで、一緒に暮らしているようではないか。
そう思ったところで、膨れ上がった感情に耐えきれなくなったクロムは、両手で顔を覆ってその場にしゃがみこんでしまった。
急にうずくまったクロムにスノウは驚いたようだったが、すぐにくすくすと笑いながら膝をついてクロムと目線を合わせてきた。
「君とは、こういう挨拶がしたいんだ。よいだろうか?」
穏やかに尋ねてくる声に、クロムは顔を覆っていた手をそっと外してスノウと目を合わせた。
声に違わず、穏やかな表情でスノウはクロムを見つめている。そのくせ、雄弁な瞳には熱をこめて。
クロムの返事など分かっているだろうに、あえて言わせようとするのになんだか悔しくなり、クロムは黙ったまま責めるような視線を向けてみる。
すると、挑戦を受けて立つと言うようにふっと鼻で笑ったスノウが、すっとクロムの左手をすくい上げ、口づけを落とした。
左手の、第二指に。
「…………っ!?」
求婚に相当するそこへ贈り物をしたいと、スノウに言われたことを思い出させるその仕草に、クロムは顔を朱に染めた。
そこから返事を促すように、クロム、と名前を呼ばれる。
「……っ、分かりました!いつだってスノウさんが帰って来るのを待っています。おかえりなさい!」
いくらかやけになって叫ぶように返事をすると、スノウが感極まったようにぎゅうぎゅうと抱き着いてきた。
部屋の扉の前で何をやっているのだろうと思ったが、左手に馴染んだ腕輪が目に入って、まあいいか、とクロムは諦めて微笑んだのだった。