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遅すぎた謝罪

 鈍い音が響く。


 突然の”それ”にポカンとしていたクラウディア・コッホ伯爵夫人だったが、認識が追いつくに従いその目を大きく見開いた。

 そして、絶叫を辺りに響かせた。

「お嬢様!」女騎士ジェシー・レーマーが駆け寄ろうとするも「止まりなさい!」という主の声に静止した。

「痛い痛い痛い!」

 号泣するクラウディア・コッホ伯爵夫人は腰を落とすも、その右手は丸テーブルに張り付けられた様に動かない。

 いや、”様に”ではない。

 クラウディア・コッホ伯爵夫人の掌は、少女の小さな手の、そこに握られている万年筆に刺し貫かれ、テーブルの上に張り付けられていた。

 そこから、真っ赤な血がボコボコと溢れ、テーブルを紅色に染め始めていた。

 そこに、場違いなほど冷淡な声が流れる。


 エリージェ・ソードルである。


 この女、発狂しそうな勢いで泣き叫ぶクラウディア・コッホ伯爵夫人に向かって、冷たく言い捨てた。

「コッホ夫人、もう伯爵領に戻って頂いて結構」

 乱暴に万年筆を抜くと、真っ赤な飛沫が上がり「うぁぁぁ!」という声とともに、夫人はテーブルの下に崩れ落ちた。

 侍女達が慌ててその元に駆け寄ると、子供のように叫くクラウディア・コッホ伯爵夫人を連れて行った。

 エリージェ・ソードルはそれを冷めた目で見送っていたが、その視界の端にクリスティーナと弟マヌエル・ソードルが立っているのに気付く。

「クリス?」

 勉強道具を持ったままのクリスティーナは呆然としていたが、声を掛けるとその顔をグニャリと歪め、ボロボロと涙を流し始めた。


 そして、勉強道具をその場に捨てると、エリージェ・ソードルまで駆けた。


 軽い衝撃と共に、抱きしめられたその体から温かな体温が伝わってくる。

「おじょ~様ぁ……。

 クリス達のために怒ってくれた事は何となく分かるよぉ」

 女の体に回されている手が、少し絞まる。

 それが――そして、その小さな体が細かく震えている事にエリージェ・ソードルは気付いた。

「だけどね、おじょ~様ぁ!

 優しいおじょ~様が、そんな怖い事しちゃ駄目!」

「クリス?」その体に手を回そうとしてこの女、ぎょっと目を見開く。


 自身の右手が紅色に染まっていたからだ。


 縁から固まり始めたそれは禍禍しく色を鈍らせていた。

 そして、未だに握る万年筆の先はへし折れて、真っ黒な液体をボトボト漏らしていた。

「お嬢様!」

 侍女ミーナ・ウォールがその手を手拭で被った。

 水で湿らされていたそれで、侍女ミーナ・ウォールは丁寧に拭っている。

 エリージェ・ソードルはそれを呆然と眺めた。

 泣きじゃくるクリスティーナの姿と赤と黒に染まった手ぬぐい、そして、女の手から外された、先の(ひしゃ)げた万年筆――それらを目でなぞりながら、言い知れぬ不安が背筋を撫でた。


 何かが……自分の心に何かが、巣を作っている。


 そんな焦燥に鼓動が強く高鳴った。


(何かしら、わたくし、何か……)


「……ごめんなさい、クリス。

 ごめんなさい……」


「お姉様は悪くない!」


 突然の声に、エリージェ・ソードルが驚き視線を向けると、弟マヌエル・ソードルが震えているのが見えた。

 その漆黒の瞳は大粒の涙で潤み、白く柔らかだった頬は赤く染まっていた。

 弟マヌエル・ソードルは下唇を噛むと「お姉様は悪くない!」ともう一度叫んだ。

「弟君?」

 エリージェ・ソードルから体を離したクリスティーナが呟く。

 弟マヌエル・ソードルは強い視線のまま続ける。

「お姉様、僕は……。

 僕は……嬉しい……」

「マヌエル……」

 弟マヌエル・ソードルは俯くと、ポトポトと滴を地にこぼしながら呟くように言った。

「お姉様……。

 ありがとう、ござい、ます……」


 ”前回”の事だ。


 公爵領に来てからのマヌエル・ソードルは孤独だった。

 母親であるミザラ・ソードルは子爵家にいるころから男遊びが激しく、マヌエル・ソードルの面倒は使用人や祖母に丸投げするような女だった。

 その代わりに、祖母や子爵家の使用人は優しく、それなりに幸せな生活を送っていた。

 だが、母親に引きずられるように来た公爵領ではそうはいかなかった。


 守ってくれる祖母がいない。


 公爵家使用人たちの多くは前公爵夫人、サーラ・ソードルを敬愛していて、突然現れたミザラ・ソードル、その息子であるマヌエル・ソードルに対して、複雑な思いを抱えていた。

 繊細なマヌエル・ソードルはそれを拒絶と感じ取り、籠もるようになっていた。


 本来頼るべき母親は、マヌエル・ソードルを置いて王都にさっさと行ってしまった。


 父ルーベ・ソードルは調子の良いことばかり言いながらも、マヌエル・ソードルを正面から見ることはなかった。

 何だかんだと言い訳を並べ、離れていった。


 だから、マヌエル・ソードルは姉であるエリージェ・ソードルに一縷の望みを持った。


 無愛想な一つ上の少女は特に優しい言葉をかけてくれたわけでもなかった。

 そもそも、会話自体ほとんどしたことはなかった。

 けれど、エリージェ・ソードルという姉は自分をただ見てくれた。

 侮蔑も嫌悪も憐憫も無く。


 ただ、見てくれた。


 それに、使用人たちが、表情に出ないだけで本当は心優しい人なんだと話しているのを聞いた。

 だから、姉だけはいつか自分を助けてくれる。


 そう信じていた。


 マヌエル・ソードルの生活は好転どころか、ある人物の登場で悪化の一途を辿った。


 その人物、クラウディア・コッホ伯爵夫人といった。


 家庭教師となったクラウディア・コッホ伯爵夫人はマヌエル・ソードルを苦しめた。

 別に暴力を振るったわけではない。

 どころか、罵声すら浴びせない。

 だが、クラウディア・コッホ伯爵夫人は的確に、少年の心を削った。

 マヌエル・ソードルが何か少しでも失敗すると、クラウディア・コッホ伯爵夫人はこの世の終わりのように悲嘆にくれた。

 そして、伯爵夫人”自身”を責めた。

 今まで行ってきた功績を並べ、”にもかかわらず”、”にもかかわらず”、お仕えする方に”このような”稚拙な失敗をさせてしまったと、責めた。

 そして、必死な形相で詫びた。

 マヌエル・ソードルがそんな事はないといくら言っても、深々と頭を下げてきた。


 さらに、クラウディア・コッホ伯爵夫人は没落した貴族の末路を長々と語ってきた。


 全てのものに見捨てられ、かといって平民になれず借金をし、奴隷として泥にまみれたまま死んだ元伯爵の話や、爵位剥奪になったとたん使用人に嬲り殺された子爵の話などを聞かされた。

 後ろ盾が無く、頼れる者のいない少年にとって、どれも恐ろしいものだった。


 だから、マヌエル・ソードルは必死になって勉強した。


 だが、クラウディア・コッホ伯爵夫人は瑕疵と呼べぬものを巧みに傷とし、エグる。

 さらに、その圧力は小さな少年には重く、失敗をし、さらに圧力が強くなる。

 マヌエル・ソードルは空気の吸い方を忘れたかのように、呼吸が苦しくなり、何度か倒れもした。


 侍女長ブルーヌ・モリタなどは守ってくれようとした。


 半ば無理矢理、勉強中に同席すると言い張ったこともあった。

 だが、たかだか子爵家夫人が出しゃばるなと叱責されているのを見て、心根の優しいマヌエル・ソードルは「もういいよ」と言うほか無かった。


 マヌエル・ソードルは何もかもが恐ろしくなった。

 将来も、今も、苦しく、恐ろしかった。

 そして何より、自分を囲む人々が怖かった。

 姉であるエリージェ・ソードルさえ来てくれれば、迎えに来てくれれば、そんな事ばかり考えながら、極力誰とも関わらないように、部屋の隅で膝を抱える日々を過ごしていた。


 ところがである。


 そんなマヌエル・ソードルにからむ男が現れた。

 その名をフランチェスコという。

 南方の国ローネからの移民二世であった。

 白く整った顔に、さらさらとした黄金色の長髪、細くしなやかな体躯の美丈夫で、いつも女の使用人に声をかけては侍女長ブルーヌ・モリタに叱責されるを繰り返す男であった。

 そんな青年は何かといっては、マヌエル・ソードルを部屋から連れ出し、女の子が好きな傾向やら声の掛け方など、子息にはおよそ不適切なことを教え込み始めた。


 マヌエル・ソードルは始めのうちは嫌がり、遠ざけようとした。


 だが、余りにもしつこいので根負けし、クラウディア・コッホ伯爵夫人の勉強が終わった後は、庭園を眺めながら、庭師フランチェスコの身振り手振り話すナンパの体験談などに耳を傾けることが日課となっていた。


 そんな庭師フランチェスコは最後に必ずこのように懇願した。


『坊ちゃんが十歳になったら従者がつくことになります。

 その時は是非、このフランチェスコを推薦して下さいね!』

『フランみたいな従者は嫌だなぁ』

 マヌエル・ソードルはそのように言って笑った。

 だが、マヌエル・ソードルはその言葉に、少し希望が持てた。

 苦しく怖いと思っていた将来が、仄かではあったが明るくなった気がしていた。


 ある日、マヌエル・ソードルは庭師フランチェスコに訊ねてみた。

「ねえフラン、なんでこんなに僕に構うの?

 僕、男の子だよ?」

「そりゃぁ、エリージェ・ソードル(お嬢様)がいらっしゃれば、そちらに声をかけますがね」

「え~」

 不満そうな顔をするマヌエル・ソードルに庭師フランチェスコは快活に笑う。

「だって坊ちゃん、いつも辛そうな顔をしてるじゃないですか?」

「え?」

 驚くマヌエル・ソードルに、庭師フランチェスコはニヤリとした。

「そんな顔より、楽しそうなのの方がいいじゃないですか?」

 そして、微かに苦笑をしながら頬を掻いた。

「まあ、余計なことだとひっぱたかれる事もありますがね」

「……先生に思いっきり叩かれたんだってね」

 庭師フランチェスコはあのクラウディア・コッホ伯爵夫人にまで声を掛けて、扇子で思いっきり殴られている。

 マヌエル・ソードルとしては、彼が良くクビにならなかったものだと感心したぐらいだ。

「だからね、坊ちゃん。

 坊ちゃんが辛そうな顔をしている限り、このフランめは付きまといますから、それが嫌なら早く楽しいことを見つけて下さいね」


 だが、庭師フランチェスコのその言は、嘘になった。


 その日は何の変哲もないもののはずだった。

 いつものように苦しい勉強を終えて、いつものように庭師フランチェスコに会いに庭園に向かい歩いていた。


 そこに、突然後ろから誰かが駆ける音が聞こえた。


 マヌエル・ソードルが振り向くまもなく、誰かに手を捕まれ引っ張られる。

 侍女長ブルーヌ・モリタであった。

 侍女長ブルーヌ・モリタは、普段、冷静沈着な彼女らしからぬ焦りの含む声で叫んだ。

「若様、走ってください!」

「え? なに?」

 混乱の中、引きずられるように走るマヌエル・ソードルだったが、その理由をすぐに知ることとなる。

「いたぞ!

 マヌエルだ!」


 後ろから抜刀した騎士がこちらに向かって駆けてきたのだ。


 鎧を赤く濡らした彼らが、目を爛々とさせながらこちらに向かって走ってくる様子に「ひっ!」と声を漏らしてしまう。

 恐怖で足の力が抜けそうになるのを「若様!」という侍女長ブルーヌ・モリタの叱咤に必死で踏ん張る。

 恐怖で涙があふれてくる。

 苦しみも悲しみも恐ろしさもたくさん味わってきたこの少年も、明確な殺意の前にただただ怯えた。


 庭園に飛び出るように出た。


 夏の陽光が頬を照らす。

 侍女長ブルーヌ・モリタに手を引かれるまま、奥に進む。

 息が苦しい。

 暑いからか恐怖からか分からないが、汗がダクダクと流れる。

 そんな中、場違いなほど美しく咲き乱れる花々に挟まれた小道を必死に足を動かす。


 突然、抱きしめられたと思ったら、花の中に押し倒された。


 堅い茎が刺さり、痛かった。

 押し倒したのは侍女長ブルーヌ・モリタだった。

 そして、先ほどまでいた小道に槍が刺さっていた。

(あのまま走っていたら、串刺しに……)

 マヌエル・ソードルの背筋に冷たいものが走った。

「ったく、てこずらすんじゃねえ」

 巨大な影が、マヌエル・ソードルを覆い(かぶ)さる。


 騎士だった。


 白地に青の刺繍が施された軍服を身につけた、騎士だった。

 ソードル領の……自身を守るべき騎士のはずだった。

 なのに、その男は憎々しげに顔をゆがめ、剣を振り上げ――そして、ためらい無く下ろした。


 赤い飛沫が真っ青な空に舞う。


 自分を抱きしめる侍女長ブルーヌ・モリタの肩がざくりと裂かれているのを、マヌエル・ソードルは呆然と見つめた。

「ヴィリ、止めなさい!」侍女長ブルーヌ・モリタの叫びを「どけぇよ、ババア!」と騎士は怒鳴り返し、さらに剣を振り上げた。

 そこに、別の影がマヌエル・ソードルの前を横切る。

「あ!」


 声を漏らす眼前に長い髪が黄金色に流れる。


 つい昨日、『エルフみたいでしょう?』と自慢げに見せてきた緑色の上着が――強い日差しに照らされ、夢の中の様にやけに儚げだった。

 そんな彼が、草の入った巨大な箱を前に突き出しながら、騎士を牽制している。

「行けぇぇぇ!」

 普段、気取った言葉ばかり漏らしていたその口から、恐ろしいほど強い声が響いた。


 突然、視界が上がる。


 そして、庭師フランチェスコがだんだん離れていく。

「若様、目を閉じてください!」

 侍女長ブルーヌ・モリタの――自分を抱き上げる彼女の声が妙に冷たく聞こえた。


 見るべきでは無かった。


 だけど、頭が追いつかなかった。

 マヌエル・ソードルはだから、目を大きく見開いたまま、それを凝視し続けた。


 弾かれたように大量の緑が舞い上がり、それを追うように赤が空を散った。


 絶叫と怒声がやけに遠く、まるで現実のものでないように響いた。


 突然、視界が暗転する。

 いや、何処かの中に入ったのだろう、侍女の一人が懸命に扉に鍵をかけている。

(何故、鍵をかけるの……?

 これじゃあ……)

「ブルーヌ、フランが……」

(追ってこれないよ?)

「ブルーヌ……」

 侍女長ブルーヌ・モリタは何も言わない。

 ただ、マヌエル・ソードルを抱き上げる右腕に力がこもる。

 大粒の涙がこぼれ落ちる。

 フラン……フラン……。

「フラァァァン!」


――


 マヌエル・ソードルは分かっていた。

 聡いマヌエル・ソードルは分かっていた。

 姉エリージェ・ソードルが公爵のため、公爵領のため、領民のため……。

 そして何より、(自分)のために、どれほど必死になって働いているのか、分かっていた。

 だから、我慢した。

 困らせてはいけない、患わせてはいけない、自分なんかのために気を散らせてはいけない。


 そう我慢していた。


 ようやく、領に来てくれたにも関わらず、忙しなく指示を出す横顔にも。

 食事中にふと視線に入る、手が付けられる事の無い姉の食事にも。

 伝えたい事があっても、さっさと執務室に消えていく背中にも。


 我慢した。


 だけど……我慢できなかった。


『フランチェスコ?

 そんな庭師、居たかしら?』


 ある日に言われたその言葉は我慢できなかった。


 居たんだよ!

 フランは確かに、居たんだよ!


 マヌエル・ソードルはそう、絶叫したかった。

 フランは僕のために! 僕のために!


 マヌエル・ソードルはそれを必死に抑えた。

 いくら、エリージェ・ソードル()でも全ての使用人を把握する事は出来ない。

 そう、理解していたからだ。

 だけど……どうしても、どろりとしたものが、心の底に溢れてきて……。


――


 エリージェ・ソードルはクリスティーナを自身から離すと、弟マヌエル・ソードルの元に戸惑いながらも歩く。

「マヌエル……」

 弟マヌエル・ソードルは俯いたまま、エリージェ・ソードルに抱きついた。

 黄金色の柔らかな髪がエリージェ・ソードルの胸の上で微かに揺れた。


 脳裏に弟の睨む顔がよぎった。


 それは、”現在”のではない、”前回”の弟だ。

 エリージェ・ソードルは弟マヌエル・ソードルに手を回そうとして、少し躊躇し、結局、不器用な手つきで抱きしめた。

 そして、この女らしからぬ悲痛な顔で呟いた。


「ごめんなさい。

 気付いてあげられなくって」


 弟マヌエル・ソードルの号泣が辺りに響く。

 初夏の仄かに涼しい風が、それを柔らかく流していった。

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