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とある伯爵夫人のお話1

 コッホ家は代々名のある学者を輩出している名家で、クラウディア・コッホの父レロイ・コッホも地形学の権威として知られる人物であった。

 クラウディア・コッホもその血を強く受け継いでいるようで、幼い頃から部屋に籠もり、本ばかり読む少女であった。

 他家から嫁に来た、この女の母親などは『この子もコッホの呪いにかかっている』とぼやいたほどであった。


 幼い頃のこの女の憧れは父親であった。


 本や資料に囲まれた父親が、髪をくしゃくしゃにしながら万年筆を走らせるその姿に幼い頃の女は心を強く揺さぶられていた。

「わたしもいつかはお父様のような立派な学者先生になるの!」

とクラウディア・コッホが目をキラキラさせると、微笑む父レロイ・コッホは決まってこのように言った。

「ディア、だったらまずはこの万年筆を貰えるように頑張りなさい」


 父レロイ・コッホが見せるその万年筆にはオールマ王国の紋章の後ろに羽で出来た筆と杖が交差した絵が描かれていた。


 それは特別な研究を成しえた者のみに与えられる万年筆であり、これを持つことはこの国における最高の探究者であることを意味していた。

「うん!

 わたし、絶対貰えるように頑張る!」

 クラウディア・コッホという少女は、偉大な父レロイ・コッホの隣に立つ未来を、その時、信じて疑わなかった。


 だがこの女にかかった”呪い”とやらは、自身が思うほど強固ではなかった。


 それが表に出始めたのは、この女が十五になりオールマ学院に入学してからだ。

 学業だけで言えば学年一、ばかりか当時の学院一の女に対して、多くの教授達は敬意を持った。

 また、生徒達も名門コッホ伯爵家令嬢に対して、その多くが丁寧に扱った。

 クラウディア・コッホはそれを当たり前のことと受け取った。

 自身の家に対して、自身の父に対して、そして自身の才覚に対して、この女自身、高く評価をしていた。

 そして、貴族の教養ごときで必死になっている同級生達が、実に矮小な存在に見えた。

(何故このようなことも分からないのかしら。

 馬鹿みたい)

 などと考え始めるのには、さほど時間を必要としなかった。

 だが、そんなクラウディア・コッホにも尊敬すべき子息が生徒の中にいた。


 その名を、ルーベ・ソードルという。


 王国屈指の名家ソードル公爵家の子息で、甘い笑顔と身分に捕らわれない寛大な性格とで、多くの”女子”の心をトロケさせていた。

 クラウディア・コッホも例に漏れず、物語から抜け出してきたかのような笑顔の貴公子に、片膝を付かれ、右手の甲に口づけを落とされた時などは、顔を真っ赤に染め、もう死んでも良いと本気で思った。

 さらに、クラウディア・コッホを感動させたのは、このルーベ・ソードルという子息の人身把握術だ。


 このルーベ・ソードル、多くのことを人にやらせる。


 毎日の授業の準備や教室の移動時の荷物運び、食堂での様々な用意や果てには宿題まで――他の生徒にさせた。

 クラウディア・コッホはその徹底した姿勢に感動した。

(宿題などどう考えても自分でやった方が早いことまで人にさせるということは――つまり、この方は分かっていらっしゃる!

 この学園で学ぶべきは、子供でも解けるようなふざけた宿題(それ)ではなく、領主として、人の上に立つ上で、必要な技術――指揮能力だということに!)

 後にクラウディア・コッホの夫となる一学年上の幼なじみなどは『考えすぎ』とか『恋は盲目』などとモテない男特有の嫉妬の混じった言葉を吐いて来たが、ルーベ・ソードルに確認した所、細く整った眉を困らせた美男子に『ディアには何でもお見通しなんだね』と言われたので間違いはない――そうクラウディア・コッホは確信した。

 その事もあり、陶酔しきりのクラウディア・コッホは、ルーベ・ソードルの世話を率先してするようになった。


 だが、そんな女だったが美しい公爵子息と恋仲になろうまでは思わなかった。


 自分の容姿が地味だということを正しく理解していたし、ある女性が僅かな希望を抱かせる隙間を与えなかったこともある。


 その女性、サーラ・ルマという。


 名門ルマ侯爵家の長女で、白百合のように美しい女性であった。

 持病があり儚げな所もあるが、所作の美しい二学年上の先輩であった。

 クラウディア・コッホが生徒達の中で珍しく尊敬できる女性であり、ルーベ・ソードルの婚約者であった。

 サーラ・ルマ侯爵令嬢もクラウディア・コッホを気に入っているようで、図書室で良く一緒になる地味なこの女をお茶会にたびたび誘ってきた。

 そして、古代文明やら古典やらについて生き生きと話すクラウディア・コッホの言葉を、柔らかな笑みを浮かべながら聞いてくれた。


 高貴で美しい女性が自分を認めて下さる。


 クラウディア・コッホは感動した。

 そして、物語から抜け出したかのような男女に仕える登場人物の一人になった気分になり、有頂天となった。

 そんな女に対して、サーラ・ルマ侯爵令嬢は困ったように美しく整った眉をハの字にした。

 そして、女を愛称で呼びながら優しく諭した。

「ディア、あなたは物事を自分の作り出した枠にはめ込み、見る所があるわ。

 気を付けないと本質を見誤るわよ」

 しかし、クラウディア・コッホはこんな自分を気にかけてくれたと興奮するだけで、サーラ・ルマ侯爵令嬢がその後すぐに学院を卒業してしまったこともあり、結局その言葉と向き合うことをせずに終わった。


 サーラ・ルマ侯爵令嬢が卒業した学院で、クラウディア・コッホはルーベ・ソードルに対して、よりいっそう世話をするようになった。

 余りにも献身が過ぎるので、”ルーベ専属侍女”などと揶揄されるほどであった。


 だが、その頃こそクラウディア・コッホの絶頂期であった。


 正確には自身がそう陶酔しきっていた。

 サーラ・ルマ侯爵令嬢がいない現状、美しい公爵子息のそばにいるのは自分だという自負があったからだ。


 ルーベ・ソードルも彼女を出来るだけそばに置きたそうな素振りも見せていた。


 もっとも、ルーベ・ソードルとしては、侍女を置くことを許されていない学院の中であらゆる雑務を完璧にこなしてくれる後輩を便利使いしていただけなのだが、クラウディア・コッホの幼なじみが指摘した通り”盲目”になったこの女はそれに気づいていなかった。


 ところがである。


 そんな、クラウディア・コッホに冷や水を浴びせかける者が現れた。


 その女、ミザラ・イーラという。


 イーラ子爵の三女で、学年は一つ下であった。

 男好きする派手な容姿と奔放な性格とで、下位貴族でありながらも高位貴族の男の目すら釘付けにした。

 そして、このミザラ・イーラという女、身分差など歯牙にもかけぬ態度で、良い男を見つければ色目を使う。

 そして、男子生徒の殆どは、恐ろしいほどに釣られていった。

 釣られなかった数少ない男子生徒の一人であり、クラウディア・コッホの幼なじみなどは顔をひきつらせながら言った。

「傾国の美女って、彼女のような子を言うんだろうね」

 幼なじみがいう傾国の美女、ミザラ・イーラ、当然のようにルーベ・ソードルにも手を伸ばした。

 子爵家程度の令嬢が公爵家の子息に馴れ馴れしい態度で誘う。

 学園に入りすっかり美しいものに魅了されていたこともあり、ミザラ・イーラのような退廃的なはしたない女に、クラウディア・コッホは吐き気すら催した。

 そして、ルーベ・ソードルはそのようなものあっさりと突き放してくれるものと信じて疑わなかった。

 ところがである。


 ルーベ・ソードルは簡単に誘惑に乗る。


 そして、呆然とするクラウディア・コッホの目の前で、ミザラ・イーラを自室に連れ込んだ。


 あり得ないことであり、信じがたいことであった。


 美しき物語の貴公子たるルーベ・ソードルが、なぜ、どうして……。

 薔薇の香りに浸かり切っていた中に、突然、肥溜めの臭いに乱入されたような心地になり、その不快さにクラウディア・コッホは顔をしかめた。


 だが、そのことでルーベ・ソードルに不審を向けることは無かった。


 子爵令嬢ごときに本気になるはずがないとクラウディア・コッホは信じていたし、事実、ルーベ・ソードルは他の男子生徒のように熱心に会いに行くことはしなかった。

 そしてなにより、実際に確認した所、ルーベ・ソードルは『ディア、僕にも分からないんだ。何故あんな事になったのか』と苦悩の表情で両膝を付いたのだ。

 クラウディア・コッホはそんなルーベ・ソードルを慰めつつも、確信した。

(あの子爵令嬢、さては薬品か魔術か何かを使ったのね。

 そうでなければ、ルーベ様があんな娘と浮気などするはずがない!)

 幼なじみがミザラ・イーラを”傾国の美女”と表したのにも納得した。


 実際の所は、ルーベ・ソードルという男、ミザラ・イーラ以外にも何十人もの女性と体を合わせている。


 単に、あからさまだったのがミザラ・イーラというだけであった。


 だが、それに気づかないクラウディア・コッホは、(あの女は高貴なる者を腐らせる害虫)と、ミザラ・イーラのみに対して一方的に義憤した。

 さらに、憤怒(ふんぬ)する事となる出来事が起きた。

 ミザラ・イーラが自身のことを蔑称で呼んでいる事を聞きつけたのだ。


 埃かぶりの梟


 クラウディア・コッホはそれを耳にした瞬間、屈辱のため赤を通り過ぎて真っ青な表情になっていた。

 コッホ家の歴史は長く、オールマ王国建国直前にはすでにその名は様々な書に記されている。

 こと、のちにオールマ王国の第二の(みやこ)とまで呼ばれるフルトの防衛戦において、初代コッホ家長はその知略を大いに振るった。

 クラウディア・コッホも幼い頃より、邸宅に飾られている『コッホ卿、フルトでの逆襲』という題の絵画を見て、自然と家名への誇りを育てていた。


 ところがである。


 その家名は誇らしい逸話のみその名を残してはいない。

 汚名もあるのだ。


 コッホ軍、梟の瞳に敵兵を見て、這う這う(ほうほう)の体で三十里駆けた。


 ハイセル伝の一文である。

 夜討ちのために森を抜けようとしていた、コッホ家当主が、警戒する余り、キラリと光った梟の目に驚き逃走したというのだ。

 ……実際、本当にこのようなことがあったかは、歴史家の中でも賛否が分かれている。

 前後の年での初代コッホ家当主の活躍もあり、全く別の家の軍だったのではというものから、当主ではなく家来であったなどという意見もあったが、何百年も過ぎた現在となってはその真相は明らかになることはない。

 ただ、その出来事を含む”ボルルケの奇跡”と呼ばれるオールマ軍の大逆転劇が、王家ハイセルの輝かしい勝利だった事もあり、ずっと残り続ける羽目になったのだ。

 故に、ミザラ・イーラの言う”埃かぶりの梟”という蔑称は、歴史あるコッホ家の傷を深く抉るものであった。


 ……もっとも、男遊びばかりに熱中するミザラ・イーラはろくに勉強をしてこなかった。


 なので、そのような時代背景など露ほども知らず、単に丸メガネ、地味な容姿、コッホというどことなく梟の鳴き声に似ているという浅い考えでそのように呼んでいたのだが、クラウディア・コッホはその逸話を貴族なら誰もが知っている知識と思いこんでいた。


 なので、ミザラ・イーラへの憎しみを深くしたのであった。


 だが、学院にいる間はそれ以上のことは起きなかった。

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