親の再婚が縁で、連れ子同士で結婚しました(三十と一夜の短篇第35回)
父に新しい女ができたと耳にして、房前はまたかと感じた。一つ上の兄武智麻呂と自分の母、蘇我娼子は幼い頃に亡くなっているし、二十歳の近い年頃であり、今更父親の行状に口出しする気にならない。これまでにも通う女性が複数おり、母親の違うきょうだいたちがいる。実母と同時期に馴染んだ女性もいれば、後から通い始めた女性がいて、加えて亡き天武天皇の夫人だった父の異母妹、藤原五百重娘にも父は手を出して弟を儲けている。今度の相手は亡き天武天皇の皇后で当代の持統女帝の異母妹で、亡き草壁皇太子の妃阿閇皇女の信任篤い宮廷女官と聞き、いい年齢をしてよくやると、半ば呆れた。
異母妹の一人、宮子を女帝の嫡孫で皇太子の軽皇子の側に仕えさせようとしているのだから、計算ずくなのだろうと考えた。
ゆくゆくは蔭位で宮廷に出仕すると決まっているが、房前は藤原不比等の二男坊、跡継ぎは兄だから、道を切り拓くのは自身の力次第。父に悪い目立ち方をしてもらいたくないのが正直な気持ちだ。
だが、兄が内舎人で出仕しはじめ、房前も翌年から世間に出るのだと意気込んでいる年に、事態が変わった。
女帝が譲位し、皇太子の軽皇子が天皇に即位し、宮子は正式に天皇の夫人となっていた。
文武天皇の夫人宮子と、父が通う宮廷女官が懐妊した。
皇族をはじめ、父不比等や宮廷の官人たちが関わった律令が完成し、めでたきことが重なっていると注視されている中、宮子は男皇子を出産し、父の女は女児を出産した。
どういう巡り合わせか、宮子は産後の回復が悪かった。体ばかりでなく、心もすっかり塞ぎこんだようになり、我が子の顔を見ようとせず、寝所に閉じこもった。同じ時期に子を生した父の女が自然に乳母のように皇子の面倒を見るようになった。皇子は首と名付けられ、皇子の乳母はほかにも配された。
さてここで、藤原不比等に関わる女性陣の力関係が変化した。武智麻呂・房前の母は故人、三男宇合の母も故人、四男麻呂の母五百重娘は一番身分が上とはいえ、天皇の未亡人でありながら異母兄と通じたと、天武天皇の後宮で寵を争ったはずのかつての女帝から何故か睨まれ肩身が狭い。宮子の母の加茂比賣が第一の妻であると前に出てきてもいいはずなのだが、宮子が気うつで寝込んでいるのでそれどころではない。
天皇の母の阿閇皇女の側近で首皇子の世話もする、そして将来その皇子に侍る可能性のある女児安宿媛の母となった父の女。
いや、父の女と呼ぶのはもう相応しくない。県犬養三千代。彼の女が公私ともに父を支える一番の配偶者といっていい立場に躍り出た。
――世の中、先のことはどうなるか判らんものだ。
生まれたばかりの首皇子のご機嫌伺いと挨拶に行った際に、三千代に会った。見知らぬ顔ではなかったが、ゆっくりと話す機会がなかった。聞いていた年齢よりもずっと若く見え、優婉という言葉が浮かんだ。気恥ずかしくなって目を逸らし、首皇子と安宿媛の側で周りの世話係の見様見真似で、まとわりついている女児がいるのに気付いた。
「あれは前の夫の美努王との娘の牟漏です。どうか安宿同様、仲良くしてやってくださいませ」
一人前の振る舞いをしようとする幼女の姿が微笑ましく、房前は肯いた。
その後、文武天皇(軽皇子)が即位十年目で二十五歳の若さで崩御するとは誰も予想しえなかった。首皇子はまだ七歳。当時幼帝の即位の例はない。母の阿閇皇女が天皇の位に就いた。県犬養三千代の立場はますます重要になってくる。おまけに女帝となった阿閇皇女から三千代は「橘」の姓を賜った。
――姓を賜るとは、鎌足の祖父と並んだ!
しかしもっと驚かせられることがまだまだ続いた。
三千代が父と連れ添う前の結婚相手との間に生まれた子どもたちだ。四世の王孫の美努王を父とする、自分より年下の葛城王や佐為王が、勉学好きで真面目な性格をしているのは、五世孫でも皇族らしく品がいいのだろうと感じていた。その下の牟漏女王もまた才溢れ、将来に期待できそうな器量の持ち主だ。初めて会った時に幼かった牟漏女王が年々美しく女らしくなっていき、房前は会う度に楽しみになっていた。
「妹は母に似ているよ」
葛城王が房前に言った。
「三千代殿にお顔立ちはよく似ているようだが? 流石県犬養氏の中から選ばれた美女の血を引いておられる」
「いや、あれは顔ではなく性格が母に似ている。不比等殿の所の異父妹にもこの前会ったが、安宿と牟漏はいい勝負だ。将来、夫となる男は余程しっかりしていないと、我が父みたいに見限られそうだ」
呑気そうにしながら、牽制しているのかと勘繰りたくなったが、葛城王はおっとりとした様子を崩さない。
「先日も、畏れ多くも首皇子様に対して二人とも乳母か姉のように振る舞っていた。安宿はいくらか遠慮もあるし庇って差し上げもしますが、牟漏は容赦がない。もう一人の異父妹の多比能が怖がって小さくなっていた。
同じくらいの年の頃でも、亡き文武天皇の姉君の氷高皇女は奥ゆかしくあられた」
文武天皇と一つ違いであった葛城王には別の思い入れがあるのだろう。
葛城王は房前を見てにやりと笑った。
「皇族扱いの身分は五世の自分で終わり。こちらは余慶のおこぼれに与れれば充分。邪魔になるようなことはしませんよ」
「いや……」
「房前殿の異母妹の長娥子殿は長屋王の妻の一人。不比等の義父殿は閨閥の重さをよくよくご存知だ。房前殿は義父殿のように多くの女を持とうとはしないのですか?」
「それはゆくゆく考えます」
房前にも通う女性はいる。子もいるが、もっと身分の高い相手を探してみたらと父から言われている。それこそ余計な口出しである。兄が右大臣安倍氏の孫娘と結婚している。兄を刺激したくない。そんな心境を知ってか知らずか、葛城王は続けた。
「いえね、母から頼まれたのですよ。こう言ったことは自分でいうより男同士の話で出した方が房前殿の気が楽だろうと。
あれにね、首皇子様にそんなに構うのなら、お前がおきさきになってみたらと軽口を言ってみたら、怒ったんです。わたしはおきさきなんてなりたくない。それに首皇子様は頼りないなんて怖い物知らずなことを言います。
それにあんまりいじめるものだから、首皇子様に怖がられているみたいです。安宿や多比能の方が首皇子様の思し召しに添いそうです。その方が義父殿たちにも都合がよろしいでしょう?」
「ええ、まあ……」
「で、房前殿はあれをどう思います?」
「は?」
「あれはね、実は房前殿に気があるようなんです」
「は?」
間が抜けた反応に葛城王は遂に吹き出した。
「いや、その私の勘違いでなければ牟漏女王のことでしょう? 私と牟漏殿は十以上年齢が離れています。それにまだまだお小さい。宇合や麻呂の方が年齢が釣り合うでしょう」
「房前殿から見れば、そりゃあれは十を幾つか出たような子どもでしょう。でもじきに母が宮廷に出仕した年齢に達します。
あれに言い寄る輩が出てきてもおかしくない年齢です。
変な男に近付かれるよりは、あれが好いている殿方とどうかと、母が勝手に考えているのです。
ま、確かにあれはまだ子ども。今決めなくてもいいことです。ですが、気に留めておいてください」
葛城王からの言葉に房前は考え込んだ。父のお陰で妹が一人増えたくらいにしか捉えてなかったが、牟漏女王は確かに美少女で、気性もしっかりしている。好もしいと見詰めていたのに気付かれたのか。
――いかんなあ。
房前はひとまず答えを出すのを避けた。
房前が二十九の年に東海・東山二道の巡察使となり、しばし都を離れた。使命を終えて都に帰ってきてみて、出迎えてくれた家族や友の中で、牟漏女王の存在が大きかった。
牟漏女王は喜びに溢れた瞳を自分に向けていた。葛城王から彼の女のことを言われてから三年、今でも自分を気に掛けてくれているのなら本気なのだろう。そして、牟漏女王自身も十五歳に達してすっかり見違えた。
――ああ、これは惚れるかも知れん。
単なる親愛の情を越え、男の気持ちを揺さぶってくる魅力が出てきている。子どもはいずれは大人になる。年齢差が気にならなくなる時期はすぐに来る。
房前の迷いを知ってか知らずか牟漏女王は一層親し気に振る舞おうとしてくる。しばらく会えないでいた期間があった所為か、感情が高ぶり易くなっているのだろう。
「東国を回られて、色々とご苦労があったのでしょう? わたくしなどには判りませんが、ご報告が終わりましたら、ゆっくりとお過しになられては? 義父殿や母がいる屋敷なのですから、なんでもすぐに手配できます」
仮にも義理の妹であるから無碍にできないし、房前側も好意を抱きはじめている。父や三千代からの異議が無ければ、気持ちに任せたまま二人の仲を進めていってもいいだろう。
「牟漏女王の仰せなら、喜んでお受けします。貴女がよろしければ、お話相手をしてくれますか?」
「勿論です」
牟漏女王は顔を輝かせた。
藤原房前と牟漏女王は翌年妹背となった。親はどう思っているかは全くの杞憂で、三千代は以前からこうなると思っていましたよと喜びを露わにし、父不比等もいいじゃないかの一言だった。兄の武智麻呂がどう感じたが唯一の気掛かりだったが、兄は「良かったじゃないか、おめでとう」と言ってくれた。
宮廷の朝議に参加するには、一氏族から一人と昔からの不文律がある。現在父が右大臣の座にいるので、子どもたち引き上げて役職に就かせるにも限界がある。また不比等に比べて息子たちは大した出来ではないと評価されたくない。己の力量を見定めたいし、認めてもらいたい。今は経験を積み、人脈を拡げ、兄を助けて藤原氏を盛り立ていけるように、石段を一つ一つ重ねていく季節だ。
だが、父も三千代も思いがけない話を持ち掛けてきた。
「我が家の跡取りは武智麻呂で決まりだ。房前、お前は分家の扱いにする」
房前は父の言葉をゆっくりと反芻した。
「私に独立した家、氏族となれと仰せで?」
「儂の言うことが判ったのなら話は早い。いずれ宇合や麻呂もそのようにするつもりだ。中臣と藤原が別の氏族になったように、藤原氏も別れる。そうすれば太政官に武智麻呂とそなたが席に着いてもおかしくなくなる」
口でいうほど容易いか。確かに律令制度で様々な官職が定まり、大臣職はともかく、その下は氏の上が一人だけ奉公では回らない。使える人材があれば氏族の人数にこだわらずに登用すべきだろう。
右大臣があからさまに息子を分家したからと、廟堂に入れられるか、そこが肝心な点だ。
「房前殿は心配なさらず、お仕事に励んでいてください。帝はそのお姿をご覧になっておられます」
三千代は嫣然とした。元明女帝――かつての阿閇皇女――と三千代は主従を越えて、親友同士のような仲だ。女帝への根回しは引き受けると言外に告げている。
「このことは兄は知っているのですか?」
「知っている」
「兄がどう思うか?」
「気後れの必要はない。武智麻呂は武智麻呂、そなたはそなただ。儂は上に行く足掛かりを作ってやるだけだ。後は己の才覚でゆけ」
房前は父と三千代に頭を下げるしかない。
父の許を辞して、房前はその日のことを牟漏に説明した。牟漏は驚かなかった。
「母は昔から言っていました。房前殿は素晴らしい方。見目良いだけでなく、勉強熱心で努力を厭わず熱心にお勤めになっている。出仕の前から義父殿の男の子の中で、一番気に入っていた。わたくしが小娘時分に貴方に焦がれていると気付いたら、これはもう婿にしてしまおうと決めたそうです。
武智麻呂殿の下で手助けしているのは勿体無い人だと見込んでいるのです」
「そこまで気に入られているのは有難いが、何やら姑殿に踊らされているような気になってくる」
「いやですね、もう。わたくしが貴方を夫としたのは間違いではなかったのですわ。
貴方って、母といい、帝といい、歳上の女性から信頼されるところがおありなんですよ。帝も貴方の働きを喜ばれていると母が申しています。
武智麻呂殿は面倒見が良くて、気前の良い方です。でも貴方は物識りで、なんでも優しくわたくしに様々な事柄を教えてくださいました。わたくしはずっと貴方ばかり見てきていました。いつか貴方の側にいたい、殿御と添うなら、房前様と、と強く願ってきて、それが叶いました。
願いが叶った今は、わたくしは母のようになりたいです。母のように宮廷でお勤めをしながら夫の働きを助ける存在になりたいのです」
もたれ合う妻の体温に励まされ、身体に力が充たされてくるようだ。
「ああ、そなたに言われるともっともだと信じられる。そなたと私と二人、手を携えて、新しい藤原の家を興す」
やがて元明天皇は、首皇子は十五歳になったがまだ幼いからと、娘の氷高皇女に譲位した。文武天皇が即位したのも十五歳だったが、当時は祖母の持統が太上天皇として後ろにいた。母が藤原氏の首皇子が即位するには衆の納得を得難く、そして元明は老いを感じ始めていた。
皇親の一人に長屋王がいる。元正女帝――氷高皇女――の同母妹吉備皇女を妻とし、天武天皇の第一皇子高市皇子の息である。長屋王と吉備皇女の間には膳夫王はじめ多くの男児がいる。元明太上天皇にとっては首皇子も、膳夫王も孫。夫や一人息子に先立たれた元明太上天皇には娘婿が頼母しく、その孫も可愛い。
房前は姑の三千代を通してそんな太上天皇の心情を聞かされるが、藤原氏の一員として、首皇子の即位こそが待ち遠しく、長屋王や膳夫王はあくまで皇親の一人にすぎない。異母妹の長娥子が長屋王の妻になって子がいるが、血筋がどうのと言われたら長娥子の子たちに勝ち目がない。
長屋王は正義感が強い。育ちの良いまま年齢を重ねるとこうなるのだと、感心したくなるくらい融通の利かず、時に人を容赦なく追い詰める性格だ。
――教養があって、風流を語り合うにはいいが、人事の賞罰に厳しく、下々の心情に疎い。
互いに元明太上天皇と元正女帝に信頼されいてるらしい者同士、上手く折り合ってやっていきたいものだと、房前は長屋王との付き合い方を考える。
翌年、房前は兄武智麻呂を飛び越えて参議に任じられた。父不比等が右大臣のままなので、武智麻呂が廟堂に入れない。房前は分家、そして参議は大納言や中納言といった重職ではないからと、多少の言い訳をこじつけての実行だ。
「美味しいところを持っていかれた」
はっきりときょうだいたちが言う。これは父の思惑が絡んでいるし、兄だって了解していたのじゃないのか、いずれはお前たちだってと口から出掛けたが、房前は止めた。長男としての武智麻呂の面目がある。また二男坊の気楽さで忘れていたが、武智麻呂は総領として年齢の離れた異母弟たちへの気遣いがある。自分とは接し方が違っている。
――分家は本家と協力もすれば対立もする。
房前は腹を括った。藤原氏としての団結を大切にするが、己が意思は通す。
首皇子のきさきとなっていた安宿が女児を出産したのを見届け、安心したのか、父不比等が亡くなった。元正天皇は深い悲しみを示した。
次の年の夏に元明太上天皇が病に倒れ、出家した。三千代も倣い出家し、与えられた食封と資人を返す旨を願い出たが、聞き入れられなかった。夏、秋、となんとか持ちこたえたが、冬、娘婿で右大臣になっていた長屋王と参議房前は元明太上天皇に呼び出され、もしものことがあっても平素と変わらぬように、葬儀は簡素に、警備をしっかりと行うようにと詔を受けた。十日ほど後、房前は改めて元正女帝より詔を受けた。
「凡そ家に沈痼有れば大小安からず。卒かに事故を発す。汝卿房前、当に内臣と作って内外を計会し、勅に准じて帝業を輔翼し永く国家を寧んずべし」
内臣、何とも大きな役割と、信頼無くば有り得ない詔である。房前は頭を下げ、清き明き心で勤めを果たそうと心に誓った。
「貴方の普段から行いがこのような形で現れたのです。これからも励みましょう」
「ああ、そうあらねばならぬ」
房前は三千代が陰にいると知りつつも、牟漏とともに藤原北家の基礎を築くと決意は深くなる。
武智麻呂の南家は本家だし、同母の兄を無視しようとは思わない。しかし、お互い妻がおり、後に続く子どもたちができた。首皇太子を即位させて、藤原氏が輔弼して盛り立てていく目的は共通し、変わらないが、それぞれの手段や思惑にずれが生じてきている事実は否めない。
――藤原氏全体にとっての吉が、北家の吉となるとは限らなくなってきた。後戻りできぬのだから、嘆いていても仕方がない。
元明太上天皇は年を越せず、年内に崩御した。
元正女帝の治世が二年ほど続き、秋、白い亀が献じられた。
翌年、神亀と元号が改められ、元正女帝は二月、首皇子に譲位した。藤原氏が待ちに待った聖武天皇の即位である。武智麻呂と房前は正三位の位を授かった。
神亀四年閏九月に聖武天皇と安宿の間に男児が誕生した。すぐに皇子は皇太子に定められたが、翌年の九月に皇太子はあっけなく亡くなった。明けて神亀六年二月、左大臣長屋王が、「私かに左道を学びて国家を傾けんと欲すと称す」と密告があり、宇合ら武官が長屋王の邸宅を取り囲んだ。武智麻呂がほかの高官や皇親とともに長屋王の罪を窮問に邸宅に向かった。
結果として、長屋王、妻の吉備皇女、子の膳夫王、桑田王、葛木王、鈎取王らが自害した。罪があるのは長屋王のみと、弟鈴鹿王や、長娥子と(長屋王を父とする)子どもたちに咎めはなかった。
同じ年の六月、京職大夫麻呂が背中に「天王貴平知百年」と文字のある亀が見付かったと献じた。
八月、神亀から天平へと元号を改め、安宿媛は聖武天皇の皇后となった。
所謂「長屋王の変」から瑞兆の亀の献上まで房前がどのような動きをしていたか、記録からは判らない。
房前こそがこの政変の黒幕とも言われるがそうだろうか。長兄が、有能で自分とは違う人脈を築いている二弟に声を掛けず、三弟、末弟と組んでの一連の動きかも知れない。
――内臣に任じてくださった女帝が太上天皇で見守っておいでの御代で事故が起こってしまった。長屋王とはいずれ争わなければならない相手だったが、このような手段で良かったのだろうか。姑殿は我が娘が皇后となり、我が子の葛城王が順調に官位を進めているのだから、不満はあるまい。だが、かつての忠勤を認めてくださった方々を偲んで、心穏やかではなかろう。
政治上の対立はあったが、長屋王と房前は詩友だった。
房前は妻と姑とともに密かに亡くなった長屋王とその家族の為に祈った。
その後、武智麻呂を中心としての太政官の体制が作り上げられる。変の直後の三月に武智麻呂は中納言から大納言となる。房前は同年九月正三位参議のまま、中務卿となる。宇合は従三位式部卿、麻呂も従三位で兵部卿であったが、天平三年の人事で参議に加わり、藤原家からの参議は三名となった。一緒に葛城王も参議に任ぜられている。
天平五年正月、三千代が亡くなった。
天平八年、葛城王と佐為王は母三千代の姓を受け継ぎたいと願い出て、受け入れられた。以降、葛城王は橘諸兄を名乗る。
牟漏は橘の姓を継がなかった。彼の女は既に三千代から多くのものを受け継いでいた。藤氏の配偶者に、宮廷での天皇や皇后からの信頼と人脈。
天平九年二月、三十代後半に差し掛かった安宿媛――光明皇后に出産はのぞめないだろうと、武智麻呂と房前、そして橘佐為の娘が聖武天皇の夫人となった。揃って一緒に娘を入内させるところが可笑しい。
――女帝が続いて、天皇に近い皇族が少ないのだから、どうか皇子を儲けて欲しい。
牟漏や光明皇后からの話では、聖武天皇自身があまり色事に熱心でないらしい。義務であるからと臣下の圧力を感じて、若い娘が侍っても嬉しくないのは男として房前も判らないでもないが、国家の大事なのだから、そこは励んでいただきたい。
「こればかりは我が娘が可愛いくないのかと奏する訳にもいかんからなあ」
「貴方も苦労が尽きませんね。でも、立派にお役を果たしておいでです」
「そなたに言われると安心できる。自分は親しくしていた者たちが先立って物寂しい」
「何を仰言っているのですか。娘もですが、息子たちもこれからなんですよ」
「そうだな、永手も八束もまだ我らが必要だ」
夫婦の会話も年を重ねれば変わってくる。若い頃の激しさとは違う、元の兄妹に戻ったような、同志の気持ち。この相手が伴侶であって良かったと、思えるのは仕合せなのだろう。兄とは一線引かれたが、長男は長男の苦労があると、二男なりに理解している。
大きな争いごとなく、律令制度に則って政治が進められ、国家が平らかで民が安寧であればよい。
しかし、この年の初めに入京した遣新羅使が流行り病をもたらした。『続日本紀』に死亡者の記事が続くようになる。
天平九年四月十七日の記事に、「参議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。」とある。大臣の格式で葬儀を執り行おうと申し出されたが、牟漏は断った。
天平九年、七月に従三位参議兵部卿藤原麻呂、従二位右大臣藤原武智麻呂が(病に倒れ正一位左大臣を拝命されたが、当日薨去)、八月に入って正四位下橘佐為、参議式部卿正三位藤原宇合が亡くなった。
――思いのままにならぬことばかり。でもわたくしは負けません。
生き残った光明皇后や橘諸兄と協力して、聖武天皇を支え、世を穏やかに治められるようにするのが我が務めと牟漏女王は亡き夫に呼び掛けた。藤原四子の遺児たちはまだ若い。先の世代に期待するより先に、現状を良くするように図らなくてはならない。
天平十八年、牟漏女王は亡くなった。亡夫と同じ正三位の位を得るまでになっていた。
聖武天皇の夫人となった娘は残念ながら子を生せなかった。
光明皇后は異父姉の死後、異父兄の諸兄より南家の二男仲麻呂に信頼を寄せ、娘孝謙女帝の後見を果たした。しかし、光明皇后の死後、叔母に頼りを置きすぎた所為か、母から頭を押さえつけられていた孝謙の反発もあり、仲麻呂は身の処し方を誤り、身を滅ぼした。
房前と牟漏女王の子永手は寧楽朝を生き抜き、左大臣まで昇りつめた。藤原北家は後に大きく繁栄を遂げる。
参考文献
『続日本紀 前篇』 吉川弘文館
『藤原四子』 木本好信 ミネルヴァ書房
『県犬養橘三千代』 義江明子 吉川弘文館
『元明天皇・元正天皇』 渡部育子 ミネルヴァ書房
『懐風藻』(全訳注江口孝夫 講談社文庫)に長屋王と藤原房前の漢詩がありますが、漢詩の良し悪しはわたしにはよく解らないのと(訳している編者が褒めていないし)、引用すると長くなるのでご紹介しませんでした。