第一話 始動
そうして、眠って目が覚めたら闘牛との追いかけっこである。無法地帯日本、寝ている間に恐ろしい場所になってしまったようだ。全く以て笑えない。
牛と俺との距離がだんだん縮まりつつあることは、背後からの地響きが近付いてきている事で分かっている。
ひとまず、この狭い一本道じゃあ、横に跳んで避ける事も出来やしない。木々の背はだんだんと低くなってきているから、このまままっすぐ進めば、草原に出られるはずだ。袖群層、だったか? 見晴らしが良い所であれば、まだやりやすいはず――。
光が見えた方に、これといった考えも無しに飛び込む。開けた草原へと出る事ができた。想定通りである。
「おい、これ、シュティーアカンプじゃねぇか!?」
「え……うそ、また……!?」
この予想外を除いては。
しかし、この牛はシュティーアカンプと言うのか。なんというか、そのまんまの名前である。少々安直ではなかろうか?
「おい、早く逃げ――」
「待って! 誰かが……」
悲しきかな、彼らは心優しい少年少女だったらしい。俺が闘牛に追われているのを発見するや否や、逃げ出す足を止め、こちらに向けて手を大きく振りだした。こちらに来いという意味だろうが、その行動がより一層、闘牛を興奮させているらしい事には気づいていないように見える。
俺を生贄に逃げてくれて、全く以って構わないのだが……。そもそも、元凶は闘牛を引っさげてきた俺なのだ。生贄という表現にも、些かの語弊があるだろう。
……と、そんな冷静な分析などよりも先に、どうしよう。
このまま直進した場合、恐らくはあの少年少女達の元へ辿り着いてしまう。もちろん、闘牛も一緒という、ご立派なオプション付きだ。
これは、まずい。とても、まずい。
「早く! あっちに村があるわ! あそこまで行けば――!」
ここでこの好意に甘えるのも一つの手かもしれない。彼らの言う村とやらに行けば、武器になりそうなものの一つや二つもあるだろう。
――だが、ここで年下に甘えていては、日本の漢の名が廃る。多少の無茶であれば、「かかってこい」と言うのが筋というものだろう。
「いや結構! ここで足止めするから、お前らは逃げろ!」
幸いな事に、闘牛の攻撃は予備動作が大きいように見える。先程の闘牛の蹴りをぎりぎりでも避けられたのは、その直前に走るスピードが落ちたからだ。よって、こちらが警戒するだけの時間があった。
その突進力は脅威だが、スピードが出すぎているせいで急に止まることができない。同じ様に急発進もできないらしく、最初はスピードが遅い。
これはむしろ、森の中へ戻るべきなのだろうか?
――否。闘牛の突進力を封じる事が出来るのと同時に、こちらの機動力も低下するだろう。こういった戦法が成立するのは、森での足運びに慣れている者に限られるのだ。
残念ながら、俺は子供の頃からコンクリート育ちの都会っ子である。尤も、そういう時代だったというだけのことかもしれないが……。
シュティーアカンプとかいう闘牛の動き、そのベースは俺が知っている野生動物と大差はない。突進か、蹴り。スピードを利用した頭突き等だ。
この怪物も一般的な動物も、体の構造が似ていれば、可能となる動作も限られてくるのだろう。
少女はこの場から少し離れた所を走っている。少年が先行して走っているようだ。ひとまず、彼女がもう少し距離を稼ぐまでは、このデカブツを押さえ込んでいなければならない。
とはいえ、正直、無理だ。勝てっこない。
避けるのが精一杯なこの状況で、こちらは攻撃の手段を持っていない。武器なんて物騒な物を携帯する必要もない、至極一般的な日本人なのだ。
闘牛の突進、それを見切り、横に跳んで避ける。武器でもあれば、背後から一太刀でも浴びせる事が出来るのだろうが……今度からは包丁でも持ち歩いておくか。マグロ解体用の包丁ならいい感じに切れそうな気がする。
「すげぇ、避けた……!?」
「後、もう少しだけ……お願い――!」
去っていったはずの子供達の声が聞こえた。近くはないが、遠くもない。
こちらの動揺を本能で察したのか、はたまた好機という事のみが理解できたのか――闘牛は、俺が目を離した一瞬の隙に、俺のすぐ横まで来ていた。
本能で察する以前に、少年と少女の表情で分かった。――これはきっと、死ぬ。
<パッシブスキル「情報収集」が順応しました>
……まぁ、どうせ夢だろう。夢の中で目が覚める経験もあった。それは子供の頃の話だが、その辺りは突っ込まないお約束である。疲れていたのだろう。
それでも、夢だからと言って殺されるのも釈然としない。ついでに、死というものに対して、俺は本能的な恐怖を感じていない、という事に気付いてしまった事にも腹が立った。
<パッシブスキル「瞬間記憶」、同「瞬間理解」が順応しました。連鎖反応により、パッシブスキル「瞬間行動」の順応を開始します――終了。パッシブスキル「瞬間行動」が順応しました>
思考が纏まっていく、その感覚が不自然に感じる。まるで、何らかの外的要因によって、無理やり冷静にさせられているかの様な感覚だ。
<パッシブスキル「並列思考」の最適化を実行します――成功。パッシブスキル「並列思考」が順応しました>
闘牛が今からとる行動を予想する。俺が今できる行動を確認する。
<パッシブスキル「分析」、同「計算」が順応しました。連鎖反応により、パッシブスキル「構造理解」の順応を開始します――失敗。外部からの補助コードを確認、コード獲得を開始します――成功。パッシブスキル「構造理解」の順応を再開します――成功。パッシブスキル「構造理解」が順応しました>
次に何が起こるのかが分かった。
計算結果が出る。何度試しても残酷な現実は変わらない。良くて相打ち、武器があれば俺の勝利だ。
……まだ、情報が必要だ。もっとよく見て、観察して――そうだ、修業時代を思い出すんだ。「見て盗め」、それが師匠の口癖だった。
<パッシブスキル「視力強化」が順応しました。連鎖反応により、パッシブスキル「五感強化」の順応を開始します――成功。パッシブスキル「五感強化」が順応しました>
計算結果が変更された。
本能的に理解できる。周りの地形、水がどこにあるのか、どのような人が、どこに、どういう態勢でいるのか。
……明らかな情報過多だ。これだけの情報量を処理できている事に、俺が一番驚いている。
振り返る。目の前に死の権化――その更に後ろに、剣の煌めきが太陽に反射しているのが見えた。
その人の顔は逆光でよく見えない。体格からして、おそらく男だろう事は分かる。
計算結果――俺は動かなくていい。
命を刈り取るためのその行為だが、ひどく芸術的に見えた。魅せられるとは、正にこの事だろう。
「よぉ。お前さん、いいセンスしてるな」
さてでは、この周辺の「世界」の構造について、とりあえず理解できた事をここに記そう。
――ここは、「日本」では有り得ない。